クライマックス




ニクスは眠ろうとしていた。だけど微かに夜の空気に紛れた小さな小さな鳴き声のような耳鳴りが聞こえた。ニクスは目を開け、耳を澄まし、少し蒸し暑い空気を嗅ぎ、持ち前の鋭い五感を研ぎ澄ませ違和感を探った。おそらく、と思った。おそらく来ているんだろう?
ニクスは網戸を引き、猫のような小さな声で呼んだ。一度だけで聞こえるだろうけど、一度だけでは出てこないとわかっているので二回。アーミー。
薄い月明かりを浴びていたニクスの顔に濃い色の影がすうっと降りてきた。同時に細い足が目の前にぶら下がっている。アーミーは飛び降りて開けられた窓に座った。その動作は衣擦れが夜にとけ込み、まったく音を立てずに降りてきたので、ニクスにはまるで初めからアーミーがそこにいたかのように錯覚した。湿度が高く、虫の声さえしない奇妙に静かな夜のことだった。
アーミーは時々ニクスに会いにやってくる。だけどこの日はいつもとは違った。赤いヘルメットに汚くすり切れたマント、ぼろぼろの服。初めて会った日のアーミーそのままの姿だった。靴さえ履いていない。
ニクスは声をかけようとしてアーミーを見た。月明かりが逆光になっていたけど、その雰囲気は十分に感じとることができた。むしろ感じて欲しいというように、手を伸ばしてこちらに進入してきた。表情にはでていないけど、アーミーはとても辛そうにしていた。ニクスはそれだけでわかった。アーミーは自分が持ってきたものを一つ残らず身につけ、そしてアーミーのためにと買い与えられたものを一つも身につけていないのだ。
「行くのか。」
不気味なほど無音な夜の中に、置くようにニクスの声が響いた。アーミーは黙ってこくりと頷いた。
「戻ってこれるのか。」
アーミーは僅かに首を振り、わからない、と答えた。ニクスとは対照的な、輪郭のないすぐに消えてしまうような声だった。
「必ず戻ってくると約束しろ。じゃないとお前を行かせられない。」
暗さになじんだニクスの目にアーミーの表情は手に取るようにわかった。アーミーは顔を強張らせているように思ったけど、ニクスを見て眉間にきゅっと皺を寄せていた。
「約束はできない。いつまでかかるかもわからない。それでも俺はどうしても行かなくちゃならないんだ。」
アーミーはとても寂しそうに見えた。言葉の中に揺るぎない強さはあっても、それが強制的なものではないことを知っている。そんなものに従う子ではないから。少年の向かうところは必ず少年の意志で決め、それのみにしか従わないのだ。寂しく思うのは、今少年が家を飛び出し長い旅に出ることなど知らずに眠っている、暖かな家族の元に残していくアーミーのかけがえのない優しい感情なんだろう。
「セムがお前を捜すだろうな。絶対に心配する。」
アーミーは目を伏せ、重そうなヘルメットごと俯いた。
「この一年、夢みたいに楽しかった。嫌な思いも恥ずかしい思いもいっぱいしたけど、全部ひっくるめて俺にはもう幸せすぎる夢だったよ。最初は意地はったりして抵抗してすごい喧嘩したけど、セムは絶対俺を諦めたりしなかった。俺のためにいっぱいしてくれた。うまいものいっぱい作ってくれた。洗いたてのシーツには俺に一番に寝ころばせてくれた。叱られたこといっぱいあるけど、喧嘩もいっぱいしたけど、俺には優しいものでしか触れなかった。俺が警戒することがない人は、セムとリリスだけだよ。俺が笑えるのも、触れるのもこの二人だけ。」
アーミーの声が夜にさっと溶けては消え、蒸し暑い風になってニクスの頬を撫でていった。今から消えていくこの子のその声は同じく証拠を残さないようにさっと消えていくのだ。思い出しにくいほど巧妙に。ニクスはそれでも、この子が消えてしまった後に上手く伝えなければいけない人がいるので、アーミーの表情も声も心も書き留めるように正確に刻んでいた。
「いい表せないほど感謝してる。本当にずっとあそこにいたいと思った。ニクス。本当に。」
ニクスは頷いた。
「お前がいなくなったことを、俺は上手く説明する自信がねえよ。何を言っても血眼になって探し始めるだろう。眠らないかもしれない。お前を待っている人間がいるんだよ。お前もあそこに居たいんだろ。」
「それでも、俺はジャックを裏切れない。」
アーミーは首を振った。
「約束なんだ。奴は俺を待ってる。俺がその約束を守らない選択肢なんて無いんだ。」
やはり決めてきたんだな、とニクスは思った。アーミーの揺るぎない意志の秘めた瞳が月の下でちらちらと光る。ニクスに止められるわけないことは解っていた。何度も繰り返した逃亡ごっこ。今度は本気。アーミーがその遊びを繰り返し行っていたのは、いつか訪れるこの日をわかっていて、見つけてもらえる喜びをこの日のこれだけは味わうことができるかわからないから、なんだろうか。
「多分長い…長期戦になる。買ってもらったばっかりの靴、最後まで持って行こうか悩んだよ。だけどやめた。俺が俺以外であそこにあるものを持ち出したりしちゃいけないんだ。」
「馬鹿か、お前より無くなって悲しむものなんてあそこにはないぞ。」
ニクスがきつくそう言うと、アーミーがまた悲しそうに笑った。
「もう行かなきゃ。時間だ。」
「必ず帰ってくると約束しろ。」
アーミーの手首を掴んだ。少し成長した頭にきつそうなヘルメットが暗闇の中で気色悪い色を放っていた。それがアーミーを蝕んでいるようにも見える。アーミーは首を振った。約束はできない、と。
「でも、俺は死なない。それだけは約束できる。ただ、いつ終わるかわからないだけ。」
アーミーはゆっくりニクスの手をほどき、ニクスもゆっくり腕を放した。そして窓から背後に落ちるように、月の下に沈むように、生ぬるい空気の漂う別の空間に飛びこむようにして、アーミーはゆっくり消えていった。窓から体が消えていく瞬間にふっと「じゃあね」と一言風に紛れて聞こえた。だけどその気配も声と同じくして、跡を残さずすっと消えていこうとしたが、ニクスは忘れたりしなかった。




アーミーは泣きながら走った。今から向かう先のことではなくて、置いてきた後ろの類は、アーミーを悲しくさせてしょうがなかった。アーミーがセムの元に置いてきたのは、アーミーがそれ以外では手に入れることのできない、人の心だった。

「アーミー。」

月から声がした。アーミーはその声を聞いたとたん、にやりと口の端があがり、流していた涙がなんだったのかも忘れた。人の心を家族の元に置いてきた子供は、今から始まるゲームを心から楽しむことができた。アーミーは月を見上げ、降りてくるその人影に向かって、本気の殺気と快楽を、向こうからも同じものを感じ取ることができた。アーミーは一瞬で何もかもを忘れ、ただ目の前にある遊びに心奪われ、セムと出会う前のかつての彼の残虐な微笑みでジャックを煽った。
鋼の鎖で絡めたような「遊 ぶ 約 束」の時間だよ


「さあ、鬼ごっこしようぜ。」
長い間待たせたね







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