カウントダウン




暗くじっと固まった光のない水面と、暗く広がるだけの夜空。ここの空には星がない。気が狂えそうなくらい深い闇は現実なので手を押し出したって壁はない。間違いなく立体なのに真っ黒な布が四方に巻き付いて寄ってくるように錯覚してしまう。それほどに光のない夜とは脅威なのだ。本当は。でも誰も、夜に本当に光がなかったことなんて無いから知らない。ここにいる奴ら以外は、みんな光がそばにある夜を今迎えている。
その波立たない黒い海の上に、アーミーは座っていた。片膝を立て、もう片方の膝の上に小型のノートパソコンを広げているが、キーボードを叩くわけでもなくじっとディスプレイを見つめながら何かを待っている。
深い闇に包まれた世界は光から遠く、暗い海の縁だけが他と比べて明るく、うっすらと細く頼りない水平線が見れる。黒い壁に挟まれたような少年だけが灯台のように明るく光り、夜が降りている間は何キロ先からでも見つけることができるだろう。アーミーはそのために座っている。水面は一ミリよりもっと狭い距離でアーミーの体のどこにも触れていない。グラビティに頼んで、アーミーの周りに薄い反引力の幕を張って貰っている。おびきよせるためわざと。俺はここに居るぞという目印を、もっと明るくもっとわかりやすくするため、自身が暗い海の上に降り立った。深い闇の中で、アーミーの姿は恐ろしいほどよく見えた。波は相変わらず起きず、さざ波の一つさえ聞こえてこないここの特殊な海は、死も生も関わらないくせに有機質な匂いがした。
───朝はもう少しマシに見えるんだけどな。
アーミーはディスプレイから目を離して呟いた。今はどこまでも黒しかないインクのような海も、朝だけは深いインディゴと言える。それが好きなわけでもないけれど、日が沈んでかれこれ五時間そこにいるアーミーはこれ以上ここにいると凍りそうだ、と思った。冷えた足先の話じゃなく。
「いすぎたのかもしれない。」
あの光の絶えない世界にある暖かい家にいることに、慣れてしまっていたのかもしれない。


普段から感情の表現がオーバー気味なセムは、それはもう発狂寸前のように興奮して走り回ってたが、ぽつりと呟くように言ったニクスの一言を聞き漏らさず闘牛のように一直線に突進して詰め寄った。
「あの子がどこへ行ったと。」
先ほどまで暴れ馬のように沸きだった血が嘘のように冷めていくのが感じられた。セムは震える手で顔を覆い、自分に言い聞かせるように言った。
「ああそうだ。まず貴様を問いつめればよかったな。あの子は貴様を特別のように思っていた。私たちの知らない秘密を、あの子は貴様に話していたこともあるだろうさ。さあ言え、あの子はどこにいったと、ニクス。手紙も残さないで、私たちが買い与えたものは一切置いていって、初めて私たちの家に来たときの姿のまま、アーミーはどこへ消えたんだ。」
ニクスはセムの指が食い込んでいくのも気にとめないまま、彼にしては珍しく体裁を気にしないで、詰め寄られた体勢でセムの逆立った神経に触れないように小さくはっきりとした声で喋った。
「悪いがどこへ行ったのか詳細を知っているわけじゃない。アーミーは、戻ってこれるかはわからないと言った。」
セムがニクスの襟元を握りしめる拳にさらに力を込めた。ひやりとした血がまた一気に吹きだってセムの頭に駆け上がり、セムは言葉にならない悲しみと焦燥を少しも押さえつけることができなくなってしまった。思いつく限りの汚い言葉を奥歯の砕けそうな口からはき出したかった。
「戻ってこれるかわからない、だと。」
それでも万力の力で解決にもならない八つ当たりを今はするべきではないとぐっと堪えた喉からは低く唸るような声がでた。
「なぜ止めなかった。そんな危険な場所に行くとわかっていて、あんな小さな子が、常識で考えてもわかるだろう。止めるべきだと、当然。癪だがお前が言えば、止められたかもしれないじゃないか。なぜ繋いででも止めてくれなかったんだ。どんな方法でもいいから…。」
あの子は私たちの大切な家族なんだ、とセムが呟くように言って、ニクスの服を握りしめた拳をそっとほどいた。深い悲しみに暮れる声だった。ニクスは同じ姿勢のまま、だけどけしていつものような人を見下したような憎らしい態度は感じられず、どこまでも真摯にそしてニクスなりのペースで語った。考えて考えて考え抜いて、やっと出せた解釈を、自分でも間違っていないか確認するように。
「俺には止められなかった。アーミーは約束があるのだと。とても大切な、だけどきっとセムやリリスとは違う次元で。それを守らないという選択肢はないのだと言った。セム、アーミーは死なないとだけ約束した。必ず戻ってこいと言ってもそれは約束できないと言っていたが、何年かかろうとも必ず死なないと約束した。」
ニクスはセムの肩を強く掴んだ。声が確信したように強くなっていった。
「セム、俺にはアーミーは俺に”じゃあ”といった。お前には言いたくはなかったんだろ。死なないと約束したのもそういうことだ。待っていてくれとは言えない。何かはわからねえけど、別のところで約束しあったそれにずるいことは一切できないと思っているんだろう。だけどアイツは待っていて欲しいはずだ。誰よりもお前に。」
ニクスの真剣な眼差しを正面から見ていたセムは、徐々に肩の力が抜け、それが掴んでいるニクスにも伝わった。今ニクスが手を緩めたら崩れそうなほど。
セムの唇が微かに震えていた。その時後ろのほうから誰かの声がして、リリスが今入ってきたことを告げた。セムと同じくアーミーを探している最中だったリリスは異様な雰囲気に気づき、怖々とした表情でこちらに寄ってくる。それでも必死だった。この空気に、嫌な知らせなのかもしれないと恐れているようだったが、消えてしまった愛しい小さな家族がのことが知りたいと心から思っている。どちらも顔色が悪く、ろくに睡眠も取っていないことが伺えた。ニクスは締め上げられた首筋を撫でながら、ほっとした。
「お前達と過ごした日々が夢のように幸せだったと言ってた。」
セムはぽつり、と零すように一滴涙を落とし、愛していると呟いた。



「いつまでかかるんだ。」
アーミーは夜の中にはっとおちてきた声に、ゆっくりと瞼を開き、それからノートパソコンに大きく表示されるデジタル時計に目をやった。時計は時刻ではなく夜明けまでの時間を刻んでいる。目をつむっていたが眠っては居なかった。もう長くこうしていたのに時間はちっとも減っていないような気がした。
「夜が明けるまで、悪いけど頑張ってよ。」
相変わらず波一つ立てない暗いだけの海にグラビティは立っていた。深い夜に、さらに瞼をじっと閉じて闇の中に沈んでいたアーミーには眩しくさえ見えた。
「それの話じゃなく。」
そう言ってアーミーの周りを包む反引力の幕を指さした。
「こんなものいくらだって張ってやる。この馬鹿げた、くだらねえ鬼ごっこの話だよ。」
「さあ、わかんない。」
グラビティはふわりと飛んでアーミーの前に降り立ち、表情はないけれどその赤い目に静かに怒りを携えていた。
「なあ、くだらねえ約束をくそ大切に守りやがって、これが守るほどのもんかよ。てめえでより好きな方好きな方移っていけばそれでいいだろうが。お前なんて、とっくに自由でいていいんだよ。ほんと馬鹿じゃねえの。お前が捨ててきたもんは、お前がずっとほしかった全部だろ。」
「だめだ。」
アーミーは強くグラビティの赤い目を見つめて言った。
「ここは自由だけど、俺たちは約束の上に成り立っている。この場所も、重たい海も、俺もおまえも、そうだろ。」
俺だけが公平でなくていいわけがない、と首を振った。ずるいのは嫌だった。甘さを持ってジャックに会うのは侮辱と同じだと思った。逃げ道も、帰る道も、全部絶ってせめてここにいたときと全く同じ自分の姿でなければ仕合えないと思った。だからその通りにしたんだ。ここは、光さえ不規則な場所は、何もかも自由で縦横無尽に飛び交っているから、俺たちは細い約束の元に繋がりそうやって自身を確保する。
グラビティは盛大なため息をつき大げさに頭を抱えた。
「じゃあなんでこんなこと頼んでんだ。早く終わらせたいんだろ。」
アーミーは歯を見せて苦笑した。痛いとこつかれた。それにはイエスともノーとも言えなくてなんともない風にやりすごすと、グラビティの手が重力の幕を抜けてアーミーの頭を二度、彼にしては優しく叩いた。
自分を思うグラビティの気持ちが伝わる。アーミーはふわりと微笑んだ。
「優しい顔ができるようになった。」
グラビティはそのまま音もなく下がり、深い闇に飛び込むようにして消えた。

アーミーはグラビティが触れた頭を押さえて、まいったなあと呟いた。
 清潔なシーツと、暖かくておいしい食事。一日に何度かの優しいハグ。何をするにも自由で、俺が聞いたことは嬉しそうに答えてくれて、俺がメニューをリクエストすると、嬉しそうに頷いてくれた。店番や本を読むと大げさなくらい褒められたから、俺は恥ずかしいからこっそりとでもわざとどこかで俺がやったとわかるようにして見つけられる手伝いをやった。見つかると頭を撫でて、頬にキスをして、ハグして、なんでも好きなお菓子をひとつくれる。
夕方干してある布団とシーツを取り込んで、そこにくるまるのが大好きだった。日の匂いのするふかふかの布団に鼻をすりつけて、開けっ放しの窓から入ってくる冷えた風に当たり、でも布団がぽかぽかでちっとも寒くない。目を開けると鮮やかな夕暮れが世界中を紅色に染め、複雑な形をした雲が太陽を覆い、虫の声も冷たい風も後ろでリリスが食事の支度をしている音も何もかも俺を包んでいてくれるように思った。布団の中で笑っていた。世界に愛されていると思った。
あの黄金の日々。
それを捨ててきた。

アーミーは膝に顔を埋め、全身の力を抜くようにして乱される精神の波に耐えようとした。思えば思うほど募り、揺さぶられる。優しい過去ではなく捨てたという辛い事実に。アーミーは今、頭を撫でてもらいたい、と思った。
───あの大きな手に、頭を優しく撫でてもらいたい。
静かすぎる海に僅かな、本当に僅かな波紋がおこった。アーミーはゆっくりと顔を上げた。何十メートルも離れていない距離に、セムがいた。
セムは何かに耐えるようにじっと立って、そして指を組み合わせて長い祈りを唱えた。暗い海に光る、灯台のようだ、と思った。アーミーの夜目の利く目がなかなかセムの顔をきれいに映してはくれなかったが、セムの顔の翳りが何かに疲れ、しかし何かを強く信じているみたいな目が炎のように光っていた。
セムはアーミーをじっと見つめる。アーミーもセムを見ている。しかしセムの目にアーミーは映ってはいなかった。長い祈りを終え、セムの口が小さくはっきりと開いた。声は聞こえては来ないけれど、何を言っているのかはわかった。待っているからね。

いつまでも


「毎晩お前のことを探してるんだ。」
グラビティはやや明るくなり出した海と空の境を歩き、アーミーを覗き込まないで小さな頭に触れ、日の出る方角をじっと見ていた。セムは消えていた。グラビティが距離を歪めて見せてくれた、遠く離れたセムの姿。
「空からからか、海からか、いつどこから帰ってきてもすぐ迎えれるように。毎晩同じ時間にああして岬に立っている。」
海にまた小さな波紋ができた。堪えて堪えて、堪えて、どうしても零れてしまったアーミーの一滴の涙。それはアーミーの体の中から溢れてきた処理しきれないほどの膨大な感情のようだった。追いつかなくて、どう落ち着かせればいいのかわからなくて、アーミーは大丈夫、と心で強く頷いた。大丈夫、大丈夫。
「お前が帰る場所は、どれだけたってもある。」
アーミーは目を開けた。向いた方向は偶然日の出の位置で、黒いだけだった海が細かなグラデーションを描き、そして空はあっというまに暗幕を押し流して、薄暗くてでも澄んだ青空が果てしなく目を覚ましていった。この鈍色の青空は、あの俺を好きな夕暮れと続いている。光を無くさない暖かな家の上にだ。ここではめずらしい晴れに、水平線からきらりと光が登った。ディスプレイには、デジタル時計が00:00となっていた。夜明けのカウントダウン、でも俺が待っていたのは日の出じゃなく。
日が昇り、俺は鬼ごっこをする。
あの家に帰るためにではなく、ただ一生懸命生きるだけ。
必死で生きて、いきて、あの家でまた、幸せを必死でむさぼるため。












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