夜間飛行






「あー華武のー。」
声に自転車をとめられて、振り返ると人なつっこい笑顔があった。無視してしまえばよかったと思う…この類いの男はよくない、相性が。
村中由太郎───捕手。黒戦高校一年。事務的なプロフィールがざざっと頭にながれて、その間に奴は明るい声をなにか発しながら寄って来る。
「どこいくんだ?」
「…関係ない。離せ。」
「んだよー同じ釜の飯食った仲だろ?挨拶くらい返せよな。つか、それ旅館のチャリだろ。いいの?」
「許可はとった。」
「じゃあどこいくんだ?」
これはとても無駄な時間だ…(だから相性がよくないと)本来なら自己トレして、湯に浸かり筋を伸ばし明日に向けてのコンディションを整えているはずの貴重な時間を裂いて詰めてやっととったんだ。ここじゃない空気を吸うためだけの。
そのためには、別に自転車をかりなくてもよかった。時間の節約を心掛けていたことが失敗した。
無視して先に進んでしまおうとしたら、5cmのところで自転車が止まった。
「何…っ」
さすがに苛立を覚えて、振り返るとその小さな捕手がもっと小さく…荷台にちょこんと跨がっていた。
「なにをしてるんだ。」
「どっかいくんだろ?俺も観光してえし。」
「観光ではない。どけ邪魔だ。二人乗りは交通違反にもなる。」
「わかりゃしねえよっ。」
どこまで図太いのか…自分は中々渋い顔をしているはずだが。
だが遠慮ない安心しきったようなわがままは、荷台の後ろにひっついてつれていけと駄々をこねるのは、埼玉においてきたまだ小さな弟と妹を思い出した。ランドセルを背負った小さな体が、自分のまだ頼りない細かった背中に懸命に張り付いてくる事がとても大事におもえた、昔のこと。きちんと飯を食べて、歯も磨いて、病気はしてないだろうか。一番上の子はしっかりしているといえどもまだ中学生にも上がっていない。そうおもうと何もかも任せっきりにしてきて悪かったなと思う。
黒戦の捕手は人の顔を覗き込んで、「何ぼっとしてんだ」と言った。黒めがちのぐりぐりしたドングリ目が上の子のそれに良く似てる。
「おりろ。」
「ちえっ」

唇を尖らせてしぶしぶ足を上げて、ちゃんと両足が下りたことを確認してからサドルに跨がった。二人乗りはさせられない。素直なことは結構だがやんちゃで無遠慮な黒戦の捕手に、似てしまわないように帰ったらしっかり教育しないといけないなと思った。その瞬間、ズン、と背後にかかる重み。
「なっ」
「レッツゴー!」
「貴様っ…」
奴は急なくだりになっている旅館からすぐの小道にさしかかるまで待っていたのだ。怒声を上げつつも、まーまーと笑う黒戦の。どんどんスピードをあげていく自転車。
「平気。俺バランス感覚自信あるし、落ちても手首だけはかばうから。」
「そういう問題じゃない」
「心配してくれてありがとう。」
でも二人乗りは兄ちゃんとよくしてたから大丈夫だよ、と。おおきなぐりぐり目は、なにも考えていない子供のようだけど、子供はときに鋭く心を読む。弟妹が、何を言っても聞かない時と同じため息が出る。下りきるころには根負けした。というよりは怒鳴り過ぎて疲れた。でかい弟がひとり、ついてきたんだとおもえばいい。








「ここはさあ、上手いもんがいっぱいあってにぎやかな良い街だけど、息が苦しいな。」
チャラチャラチャラと古い自転車のチェーンが軋む、その音に混じって呟くように言った。返答が必要な言い方では無かった。
「息ができなくって俺、このまま破裂するのかと思ったことがあるよ。俺がそうやって思うことは珍しいから誰も知らないんだ。でもここはもちょっと辛い。こうやってみれば埼玉と同じなのにな。」
奴がじっとみる方向を見れば、対向の道路を境に派手な街並の光がまるで煙のように広がり、消え、いくつもの声や悲鳴や、機械が出す音が聞こえている。耳に大きく聞こえるけど遠くて、奴の声が良く通るから、今自分が声を出せば同じくらいよく届くんだろう。

少しだけ足を速めれば、さらさらと水の流れる音が聞こえた。川が近いのか、湿気も少し空気に混ざってくる。時折漏らすように何か呟くその声を、一つ一つ丁寧に聞き取りながら、水音のする方へ走った。しばらくするとジャリジャリと荒い砂を車輪が踏む感触がした。広い川辺にでた。
「おお」
川を挟んだ街は予想通り遠く、街がだす音は水音に混じるほど小さい。光の煙は細くなった。一本で繋がっている。
「息が出来るよ。」
「そうか。」
「俺じゃなくて。」
速度を緩めた自転車のバランスをとりながら、うん?と視界の端で見れば、無邪気に笑った顔が、あんた、あんた、と言って、服のすそを掴んで引いた。
「俺は、あんたのほうが、ずっと息ができていないように見える。」
ちくりと胸に小さく鋭く刺さった。無邪気な顔は崩れない、一度街の方を見て、まぶしそうに目を細めた。
「やきゅー楽しい?」
初めてされた類いの質問だった。





本当は息ができなくて破裂してしまいそうなときがある。昔から、だけどまだ小さな弟や妹の顔を見る度、良く慕ってくれるチームメイトの警戒の無い顔を見る度、試合に勝った相手の、悔しさと濁り無い目で睨まれる度、体中の筋がぎしぎしに張って隅々を突き動かした、全力で生きようとするのだ。そう生きてきたことに後悔はない。
だからこうして、たまに高さすら見えない壁にぶち当たると、体中の筋が窄み張っていたものが縒れてまた息ができなくなるんだ。
好きで始めた野球だった。今は自分の生きる手段だ。もちろん、今でも野球が好きだと胸を張って言えるが、奪われたら、死んでしまいそうだとも───
「呼吸の仕方は、忘れてしまったが、させてくれる者たちがいる。」
「ふうん。それはいーことだ。だけど、忘れちゃいけないものだよ。一人になったって、息はするんだ。」
それは自信がなかった。
「こうして自転車にのって、誰にもみつからないところに走るのも、いーことだよ。俺ついてきちゃったけど、ごめんな。だってあんたの背中、にいちゃんのよりずっとずっと辛そうに見えたから。」
この男も息ができないことがあると言わなかったか。その兄──たしか投手の──も同じ思いをしてるなんて、なんとも循環の悪い。
肺が少し持ち上がった気がした。さっきから、声がよくとおることが嬉しい。ため息一つすら相手に届く。押し込んでいたものが、ボロボロと漏れてしまってもここは誰にだって聞こえる。届く。ふたりのりの心配をするくらい弟に似た男が自分をそうさせてくれるとは思わなかった。男の腕の温もりが腹に感じて、体に響く。



「野球はすきか。」
「もちろん。おれはまだ、息を詰まらせるわけにはいかないよ。苦しいからって、どこかへいくのは、いーことだ。」




細く長く続く煙の街に、チラチラと飛び抜けて輝く2つ3つが視界の端に入り、川沿いにひたすら続く闇を灯した。孤独な光じゃない。その昔読んだ郵便飛行機の小説のなかのようだ。好きな本を好きな時間に読んでいたあの頃の記憶。見上げれば天。輝く遠い星。都市に、田舎に灯る闇の中の光。地上と空を結ぶ人間。静けさの中の光景。美しい孤独な描写の中の希望。そして、気高い魂だった。



魂と自由な体の中身だけがどこまでも自由な所へ
───夜間飛行







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