沖草次、かく語りき 「由太郎は、魁先輩が好き?」 「うん、大好き!」 ぼくはこの二人の「兄弟喧嘩」というものをついぞ見たことが無い。 それは魁先輩の成すこと嗜めること全て正しいと思っている由太郎が弟で、理不尽な行いなど決して振舞うことなく気色悪いほどに正しくある先輩が兄であるからこそ当然のことなのかもしれない。だけどどっちも人間であるなら、脱線しない保証なんてないのに。父親である監督に兄弟そろって叱られたことは何度も聞いたし、この目でみたこともある(魁先輩の表情が忘れられなかった)そりゃあ昔は、何度かしたことがあるかもしれない。だけどそれでも由太郎は「兄ちゃんは昔から優しかった」という。もちろん日頃の弛まぬ心身の鍛錬の厳しさは自分にも弟にもぬかりはないし、その面で由太郎を甘やかすことは絶対にしない。そして由太郎が珍しく怪我をおったとき、並々ならぬ早さで一番に保健室に馳せ参じたんだ。あの時の僕の目は珍しく大きく開いたとおもう。 (もしこの二人が今感情でぶつかりあうなら、その事変はなんだろう。) 僕は由太郎がとても好きだった 同じピッチャーである魁先輩をとても尊敬していた そしてこの二人を包む優しい空気をとてもとても羨ましく思っていた。 大好きな兄である魁先輩と一緒なら由太郎の笑顔が曇ることは無いと思っていたんです。 「困った。」 「なにが?」 「ねえ沖」 「うん」 「すごい、困ってるんだけど。」 「だからなにがさ。」 「困っ」 犬の耳にも感じ取れないくらい静かに静かに芽生えたそれは 灯った明かりを包むように守ってきたのかもしれない。魁先輩。 由太郎が泣いている。感情をむき出しにしたような性格の由太郎が、肩を揺らさず一つも嗚咽をこぼす事無く静かに静かに泣いている。何故と聞けばわからないと首を振る。どうしてさ君を守るものはただ一人だと思っていたのに。君が守るものもただひとつだとおもっていたのに。魁先輩どうして。 二人を包む優しい空気は壊れてしまっただけど男と女のようなそれではなくでもあのサンクチュアリは決して戻らず 僕の羨望の聖域はもう二度と見れないんだとわかった。 「由太郎、泣いてちゃだめだよ。」 「…う、ん。」 「泣かないで。」 「よくわかん、ない。悲しくなんかないんだよ。」 「うん。」 「悲しくない。」 「うん。」 「嬉しいんだ、」 「え」 ───それはおかしい その時の僕はそこでその言葉を喉に押しとどめたことを偉業だと思っています。新芽のように柔らかで頼りないそれをわずかにでも否定をするようなことを言えば簡単に向きを変えてしまいそうだった。素直な彼は当惑するしあまつ泣き出すでしょう。それでも嘘のつけない由太郎は気持ちをすり替えてごまかすこともしないだろうからただ迷路を長くのばして彼を苦しめるだけだった。僕は由太郎が好きで先輩も好きで二人が一緒にいることはこそばかったけどとても好きで。壊してしまった魁先輩を憎いと思わないこともありませんでした、が、由太郎以上に涙を流さずに泣く先輩を見てその感情もいつのまにか消沈しました。由太郎はその面で成長しなさ過ぎていたし、実の兄に触れられたことでそれがトラウマになるんじゃないかなんておせっかいなことも思ったけども未成熟な由太郎が抱えていたものは先輩以上の同じ気持ちだったわけで。無知はおそろしい、またそれが刷り込みの様に由太郎がただの兄に対する思いを、魁先輩が由太郎を想う気持ちと同じになるように無意識に書き換えたのかもはわかりません。 どちらにしろもう聖域はなくて、この二人がつくるものはもう誰も足を踏み入れることのできない”エデンの園”しかない(我ながら気色悪い例え) 聖域でも禁止地区だろうとも、由太郎の笑顔は相変わらずキラキラだった。だけどたまに見せる思慕寄せる女のようなはにかんだ笑顔には、僕は苦虫をかみつぶす思いをせずにはいられなかった。 由太郎はなにもしらなかったのに。そうおもわずにいられません。もちろんこれは逆恨みで、由太郎が大好きな兄といっしょにエデンの園とやらに足を踏み入れる覚悟を、親友の僕はちゃんと見たのです。 「俺もしかしたら、ずっと前から、兄ちゃんのこと」 「由太郎。」 その先で先輩や由太郎の体に生々しく残る爪痕や情交の匂いを残すものを見つけては、苦虫どころか煮えた水銀を呑まされる思いを繰り返しました。その経路をイヤでも想像してしまう。想像の中での由太郎はあの太陽の下で笑う声とまったく違う声で兄を呼んでいる。ああもう本当に無くしてしまったんだと唾棄し、彼らの唇や指先が相手の体に意志を持って触れたのかと思うと目の障りになり酷いときには彼ら二人を同じ視界に納めることができませんでした。どうして自分が辛いのか、どうして自分は泣いているのか。もちろん彼らの問題で僕が憚ることではありません。僕はただうらやましかった。何の疑いもなく頼り頼られ無限の愛情を注ぎ込み絶対の絆でつながれている。そこの一点の汚れもないことが気持ちよくて、まるで雲上人だとさえ思った。手が届かないから憧れた。生臭い人間には一生抱かない気持ちだった。 リンゴを食べてしまったアダムとイブの行く末を見守る神様は気が気でなかったと思います。どうして食べちゃ行けないものを実らせんたんだ、宛違いな逆恨みをしても先立たず、だけどあの兄ちゃんと微笑んでいた由太郎の唇がもうどうしても見れませんでした。 そして彼らはただの人間になりました。 |
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