夜明け前 01




「自分でつけた火種は自分で消しやがれ」
使い方を間違っている、と思ったが言えずに、偉ぶって自分を見下ろす由太郎を屑桐は呆れた目で見た。その嫌味な視線は気づかずに差し出した手のひらをピラピラと見せ続けて、屑桐に手当をしろと要求する。突然部屋に現れたと思ったらなんだ。その尊大な態度が気に食わなかったが、その手のひらに関しては不可抗力ながら自分に責任があるとは思った。屑桐は一度短くため息をついて、別室から救急箱を借りて持ってきた。
「座れ。」
由太郎の手のひらは連日補球を受け続けて赤く腫れ上がっている。細かい傷もいくつか出来ていて、炎症も起こしかけていた。回転数が異常に多いだとか、スピードはこれまで受けた中でだんとつに早いが重みはないとか、まあ野球のことに関してはよくよく頭の回る。しかしこれまで受けていた球と違うから怪我をした、責任をとれというのはキャッチャーとしての職務放棄に等しいのではないか。野球に怪我はつきものだが。
文句を言いながらも屑桐は、責任の範囲が手当で収まるならと譲歩した。なにせマネージャーや世話係なんて連れてきていない合宿の中では、チームの誰かが手当をしないとならないし、それがバッテリーでなら片側が世話してやるのがもっともな気がしないでもない。
しかしこの男は、人受けする笑みを無料で配り歩く昼間とは随分人間が違う気がした。この部屋に入ってからまだ一度もにこりともせず、それどころか我が儘を振りまく。屑桐は差し出された手のひらに染みるぞとことわって消毒薬をふりまいた。
「ゥイーッ」
「我慢しろ。」
由太郎は地団駄を踏んで畳を鳴らし、手のひらを振り上げた。屑桐が閉じかけた手を手首から掴んで固定する。
「なんだこれくらいで情けない。」
「もっと優しくしろよ!兄ちゃんはもっと丁寧にやるぞ!」
「じゃあ次からはその優しい兄にやってもらうんだな。」
そういうと、忙しない足は相変わらずもじもじと動き続けていたが、しぶしぶ文句を飲み込んでおとなしく砂壁にもたれた。赤く腫れた手のひらは小さく、もしかすると弟と大差ないのではないかと思ったが、その手首はさすがに逞しく頑強で十分に鍛え上げられている。ガーゼを手のひらにのせると、若干憮然とした声で、なんだ、と文句を言った。
「包帯なんかいらねえよ。」
「テーピングだ。」
「ああそっか。」
「まだ働けよ。」
由太郎は足を動かすのをやめて、屑桐の表情の見えない後頭部を見た。屈み込んだ屑桐の頭上で初めて由太郎が微笑んだ。
「うん、了解。」
手のひらの腫れはまだ熱をもっていたが擦り傷は少なく、絆創膏すら必要のない程度の傷だった。それでも屑桐は念入りに消毒をして、慣れた手つきで慎重にガーゼをあてる。手首にテープを強めに巻けば、その骨太な腕の筋肉を直接触っているようにその頑強さがダイレクトに伝わった。全力で投げた球が、なるほど、この腕なら止めてくれるだろう。捕手としてこれほど望ましいことはない。屑桐は努力の垣間見れるその手首に感心していると、なあ、と由太郎が頭上で呼びかけた。
「俺の下の名前知ってる?」
「知らん。」
「由太郎。村中由太郎。今度からそっちで呼んでくれよ。」
「必要ないだろう。」
「必要あるって、俺兄ちゃんが居るんだ。いつも思ってたけど、絶対紛らわしいだろ。みんなは俺のこと由太郎って呼ぶから、村中っていうと、もう兄ちゃんのことなんだよな。だから俺いっつも反応遅れるし。これは実用だぞ。」
確かに屑桐は、その兄と喋ることは少なかったが、村中に兄弟がいてそれがそろって選抜に登録していることも知っていた。たいして気にとめていなかったが確かにどちらか呼べば指していない方も決まって振り向いた。そうした方が便宜が良いんだろうが、気をつければ呼ばずに済むことも出来るだろう。
「必要ない。」
「なんだよ。」
屑桐がテーピングから顔をあげないまま言った。由太郎は機嫌を損ねてそっぽを向いた。
必要以上の慣れあいは好まなかったし、チームの士気が下がることを危惧してはいたが、本音は村中由太郎個人との接触をなるべくこれ以上増やしたくなかった。出来れば今すぐ部屋から出て行ってもらいたかったし、試合や練習以外で話しかけるのも勘弁してほしいくらいだった。はっきりした理由はわからない。由太郎と同じ空気を吸うのも汚らわしいということでもない。
だけど距離を置くのは自分のためで、由太郎のためだと思った。親しくすればするほど、予想外の波が生じ巻き込まれ自分たちでは収拾がつかなくなるほど広がり飲み込まれる気がした。これは心の下でざわざわと蠢く、屑桐の勘だった。
屑桐が指のテープを巻き始めたとき、ふと前が陰った。由太郎が屈んで、手を伸ばして頭のサラシに触れていた。
「触るな。」
強めの声でパシリとそう言って制止する。
由太郎はゆっくりと手を離したが、少し迷うような指先で、ほどける、と言った。
「なんだ。」
「サラシ、ほどけそうだよ。」
「そうか。放っておいてくれ。」
彷徨う手を押しどけるように払うと、ゆるんだサラシの端がぱらりと降ってきた。屑桐は迅速にそれを締め直す。由太郎は目を瞬かせていた。テープはまちがった方向に巻き付いて張り付いていた。それを丁寧に剥がし、もう一度間違えたところから張り直すまえに、由太郎の顔を上目で見た。由太郎はサラシの下を透かして見るかのようにじっと見つめ、何かを考えるように唇がぴくぴくと動かしている。屑桐がテーピングに戻ろうとしたとき、由太郎が落ち込んだような声で尋ねた。
「サラシの下にはなにかあるの?」
「なにもない。半分は焼けた頭皮があるだけだ。」
屑桐は顔をあげて、怯えたような顔をした由太郎の目を見た。サラシの下には、顔以上に酷く爛れた火傷が頭を蝕んでいる。自分以外の誰にも、特に親兄弟には見せるまいと隠してきた大きな傷跡。見せることによって相手の同情や憐れみを買うならまだいい。辛いのは罪悪感や、自分以外の誰かを責められること。それが父親であっても、父親をこれ以上憎んで誰もの優しい心が1mmでも暗い色に染まることを屑桐は恐れた。サラシを取りたくないのは、由太郎の前でこの傷跡を見せたくないのは、何故か弟に向ける理由と似ていた。確信はないが、傷を見せることで由太郎は憐れみよりその原因を憎むような気がしたのだ。屑桐はもう一度なにもないんだ、と言い、テーピングの手を止めた。由太郎の手首を柔らかく掴んで、弟妹がぐずった時そうしてやるように、脈に合わせて優しく叩いた。しかし由太郎の表情は、どんどんと暗くなっていって、ふとした瞬間泣き出しそうだった。なにか気をそらす言葉が見つかる前に、由太郎が口を開いた。
「謝るから、怒らないで、ごめんよ。」
瞼は塞ぎかかってる。腫れていない方の手で眉間を押さえるように手をかざし、そのあと目を覆った。まるで苦痛に耐えているようだ。心意を測りかねて、ただ見ているだけでなんと声をかけるべきかわからない。少なくとも痛い、そしてそれの原因は自分より別のところにあると思った。部屋に由太郎が来て初めて、長い沈黙が訪れた。
目を覆い隠していた手がゆっくりと離れると、その目は予想外にきらりと光って、特別な感情の色を示していた。
「なにも怒っていない。」
屑桐はなぜかそれが今最良の言葉だと思った。そういうと噛みしめるようにきゅっと結ばれていた真一文字の口が、ホロと開いて、やがて緩やかに微笑んだ。カンは当たった。ぶら下がって絡み合っていたテープがコツンと膝にあたり、それに気づいて、また解すのに俯いた。きらりと光った目が訴えた感情は、怯えとか悲しみとか、そんな響きも清涼なものではなかった。もっと俗世的で生々しく、相応しくない、熱を秘めた物。たとえば──
「見ても良い?」
由太郎は聞くなり返事も待たずサラシを外しにかかった。屑桐に止める言葉は見つからない。目の前にサラシの白さがばらばらと落ちてきて、視界を塞ぎ、目を開けると感情の読み取れない屑桐は初めて見る表情の由太郎がいた。しかし好意に満ちた目で、うっとりという表現も相応しい眼差しで一心に火傷を見つめる。由太郎は手を伸ばし、傷に触れた。神経の通わないそこは屑桐には触れた感触すらわからなかった。形を覚えるように傷を丁寧に撫でて、額、鼻梁、瞼を滑る。すがるように頬を触ったとき、空気が変わったことを敏感に察知した。由太郎の目に、先ほどの生々しい光が抵抗できないほど強く、光る。
屑桐は見えない糸に引っ張られるように、腰を上げて、由太郎の唇にふれた。
長く、触れた箇所は薄くほんの数ミリ、だが確かに触れた。目をそっとあけると相手も同じようにゆっくりと瞼を開き、徐々に光がともる目とじっと絡み合った。体をゆっくり離して、元の座っていた位置に、寸分の変化もなかったかのように座り、屑桐は由太郎のテーピングを再開した。由太郎はなにも言わなかった。重いとも軽いともいえない空気の中で、二人は、きわめて自然に呼吸をしていた。そう努力したのだ、そうしなければ自然ではいられなかった。
屑桐は目があった瞬間に一瞬見えたあの由太郎の目の光りのなかに寂しさが揺らぐのが見えた。それは屑桐に訴えたのではない。だけど、屑桐を揺さぶるには十分なものだった。
──それをしてやるために体を動かしたのは自分だが、あの目は、誰が見てもそうだとわかるくらいそれをねだっていた。誘っていたのは奴の方だ。それは確実で間違いない。義務が生じた。誘われたからと言って動いたのは決して性欲からではなく、本当に一ミリも劣情をかき立てられたりはしなかった。それをしたのは義務だった。おどろくほど冷静にそれを与えてやった。そう、なんにせよ自分は無視したり振り払わなかったのだから、この責任は二分にしても、唇を離した瞬間のあの目のひかり。あんな目をするのなら、何故強請った。あんな目を見させられるくらいなら振り払ってしまえば良かった。
屑桐は乱暴にテープをひっぱり、とにかく手早く巻いてしまえと、彼にしては少々雑な仕上がりで終わらせようとした。
テープの音以外でこの沈黙を裂いたのは由太郎の声だった。
「俺はすごく苦しくて。」
屑桐は顔を上げず、だけど耳は由太郎の声に全神経を集中させていた。鼓膜が由太郎の一言一言に侵された。
「心拍が俺を追いつめるようにせめて、息も思考も止まってしまいかけてたんだ。誰にも見られたくなかったけど、一人になりたくもなかった。ある人の前から消えてしまいたかった。とにかく俺の息を止めるある人の匂いのあるところに居たくなかった。助けを求めるようにこの部屋に転がり込んだ。」
由太郎は手のひらの腫れなんてどうでも良かった、と謝った。屑桐がゆっくり顔をあげると、すこし首を傾げて喋る由太郎の虚ろな目をみた。あのとき見て後悔した目のひかりとは比較にならないほど、いまは悲しみに沈んでいるように見えた。屑桐は気を遣うように声をなるべく優しく包んで尋ねた。
「恋をしているのか」
「恋をしたんだ。人に言えない、一生黙っているつもりの恋だからもう終わってる。さすがに疲れて。ごめん利用したんだ。ごめんよ。」
由太郎はついに目を閉じて、その悲しみを見せまいとしてそこに閉じこもった。再び開けた目には悲しみのひかりを残していたけれども、屑桐を責めるような、問責するような強いそれであった。
「アンタの目は兄ちゃんと同じ目をしてる。周りにめちゃくちゃ優しくて、自分だけにすごく冷たい。」
どこか遠くを射抜く、だけども痛いのは自分だと訴える目で屑桐を通して屑桐ではない誰かを由太郎は睨んだ。お互いに、自然に振る舞うようにしていた呼吸はとっくに乱されていたけれど、脈や感情が激しく乱れることはなく、凍結する寸前の水のように痛いくらいの冷たさの不整脈がとくとくと流れこんでいた。まったくなにもかも不自然だ、と屑桐は思った。そして由太郎、と呼んだ。憎しみを含んでいた目の光はいっそう強く光り、蔑みすら見え隠れした。
ここで手の差し出せば必ず掴んでくるだろう。今度は義務ではなかったがその目は相変わらず強請っていたし、自分は一夜請け負ってやっても良いとすら思っていた。ただここで一番の侮辱だった。強請っておいて侮辱もなにもないだろう。だけど彼には屑桐を責める権利がある。
「由太郎。」

由太郎の背筋はまっすぐに伸び、やがて屑桐に身を任せるためにお辞儀をするように折り曲げた。悲壮な決意であった。八つ当たりや、自分の手荷物一つすら相手に押しつけたことなんてない。だからなにもかも放り投げて寄りかかってしまいたかった。ぼろぼろのつっかえ棒一つで立っていた自分を、今取り払って、ぐにゃりと崩れゆく体を誰か受け止めてくれ。

屑桐が差し出した手を由太郎は受け取り、その目は静かな怒気と激しい悲しみに落ち込んでいた。











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