夜明け前 02







小さな豆電灯のか細い光で照らされた部屋は、夏場だが冷え冷えとした印象を与えた。その豆電灯に被された笠が埃の積もった青いグラスだったせいだ。衣擦れの音一つ無く、そして男は呼吸の気配すらしなかった。それでも背中の中央に触れている相手の腕が、少しざらついた皮膚の感触と体温とで、それが布や枕でなく確かに人間であることを実感させられた。そしてまだ起きている。由太郎は低くかすれた声で、「知ってるんだろう。」と呟いた。答えは予想より早く帰ってきた。
「何が。」
自分の声が掠れていることに気がついた由太郎はますます苦い気持ちで唇を噛みしめた。数十分前までこの場所で起こっていた出来事をうやむやにさせない証拠のように、それは由太郎の前に呈示されていた。
「俺が兄ちゃんを好きってこと。」
屑桐はフン、と鼻を鳴らした。
「くだらん。」
「ここにきて、俺には関係ないってフリするのやめろよ。俺はあんたを巻き添えにしたんだ。あんたは俺を責める権利がある。」
由太郎は屑桐の方に体を回した。頭のサラシを無理矢理解かせて、今は頭皮の火傷もむき出しにしたまま、大きな体はその淡々とした台詞のように無味に横たえていた。
「興味がない。お前が誰を慕おうと、俺の何が気にくわなかろうと、俺の知ったところではない。」
ごろり、と頭を動かして、薄明かりの中の由太郎の目を見た。
「お前はもう俺と居ると笑わないな。」
屑桐が由太郎の頬に触れようと伸ばした手を、由太郎は多大な嫌悪感で払いのけた。
「そういうところがっ」
大きくゆがんだ顔は他の誰にも見せたことのない一番の醜い顔だった。由太郎は今日は「誰にも見せたことのない」顔を、この男にさらけ出しすぎていると思った。それも一人でもがき苦しみ、足を掴んで男を巻き添えにして、一人で勝手に暴いて見せているだけなのだ。
屑桐はばつの悪い顔ですまない、と言った。由太郎はわかってない、と呟いた。
「話を聞かないことが不満なのか。」
「それもある。だけど、あんたのその姿勢が嫌いなんだ。」
「ほう、例えば。」
「…そうやって我関せず見たいな顔して!」
由太郎は思わず振り上げた左手を、全力で力を噛みしめて堪えた。唇からは血の味がした。屑桐は身じろくこともなく、瞼すら動かなかった。お前が殴りたいのなら殴られても良い。由太郎が今最も嫌う反応を理解して、わざと煽って見せた。由太郎は震える拳を降ろせないまま、煮えくりかえる思いを涙と唾液と一緒に無理矢理嚥下しようとした。しかしただ飲み干すだけでは収まってくれない怒気は、仕返しにこの男の最も嫌がることをしてやろうと企ませた。震える唇からはもうすでに鉄の味がしている。噛みしめたそれをさらに強く引き八重歯を思いっきり突き立てると、ブツリと由太郎にしか聞こえない鈍い音を立てて唇からは一直線に赤い血が垂れた。出来ることなら舌を噛んで(人間舌をかみ切ったくらいでは死なない)その肌に血反吐を吐きつけてやりたかった。薄暗闇でもテラテラと光る黒い血は、屑桐の絶大な反応を買った。
「よせ。」
屑桐は飛び起きて由太郎の唇から溢れてくる血を指で拭った。一瞬小さな傷跡が現れて、またすぐにぷくりと血が浮き出ては滴った。その反応に由太郎は冷たく笑い、ぐにゃりと唇をゆがませ、屑桐の眉間のしわを見下ろした。
「…あんたが悪いんだよ。」
「ああ、そうか。」
「知らんふりして、絶対放っておかないで、優しくして、守ろうとして、傷つけまいとして、殴らせようとして煽って見せて、自分だけで抱え込んで。」
「すまない。」
「謝んなよ。」
「すまん。」
「兄ちゃんそっくりだ!」
───俺は置いてきぼりだ。また置いてきぼりだ。
顎から首に流れていた血液が屑桐の膝にぽたぽたと垂れた。同時に血ではないものも滴り落ちた。屑桐は舌で由太郎の顎からゆっくり舐め上げ、そして唇を血ごと丁寧に吸った。
「…んっ。」
一度屑桐は由太郎の目を見た。由太郎の目には、またあの昼間の時と同じ強い光と色を放ち、年齢より幼い容姿に不釣り合いな香りを漂わせた。グランドでは絶対に見られない、これを一般的に夜の顔、というのだろうか。まるで自分の手のひらにでもスイッチが有るかのように、巧みに操作している。屑桐は嘆き半分で、しかし逆らえない強い光に従って吸い寄せられるようにキスをした。
由太郎は屑桐の首に腕を伸ばし、その視界の映像が、昔見た古い映画の中で娼婦との情事が始まるワンシーンに酷似していたことに吐き気をもよおした。
屑桐が唇を離すと由太郎から食らいつき、長くない舌で求め、屑桐の体を引いた。倒れ込むときにすら、屑桐は由太郎の頭を抱えゆっくりと枕に埋めるので、由太郎の機嫌は益々悪くなった。舌でそれを示せば、予想外の反応で口腔を責め立てられた。
「うん…、ううっ。」
屑桐の舌に血の味がした。
「ん、あ…なに、もう一回すんの?」
「そんな口をきくな。」
由太郎は顔を顰めた。屑桐はまだ抱えていた由太郎の頭を、いつも幼い弟たちにしてやるそれのようにゆっくりと撫でた。虚をつかれたような由太郎の表情は、年相応…いや元が幼いからそうは言えなくとも、昼間グラウンドを駆け回る時と同じ人物の顔だと思った。
「まるで手慣れているような態度を取るな。なにもかも初めてだったんだろう。」
「そうだよ。超尻痛てえ。でも態度だけは一品だっただろ?表情も指先も肌も、ストイックな屑桐さんでも、俺に欲情しただろ。」
ニヤリと笑うその顔は、また昼の面影からかけ離れていった。屑桐は睨むでもなく由太郎の歪められた目をじっと見た。
「ああ、欲情した。」
「俺プロなんだ。」
「何の?」
鼻先が触れる距離にある屑桐の顔を滑らかな動きで引き寄せて、瞼に唇がくっつくかギリギリのところで、小声でささやいた。
「欲情させるの、の。」
屑桐の視界には由太郎の唇がいっぱいになって映った。先ほどの傷に乾きかけの血がひっついて、下手くそな紅を引いたようだった。煽られないでもないが、まだ強い理性が固まって残っている。この小僧の話を聞かなくてはならない、と屑桐が強く思ったからだ。由太郎はちゅ、という音を立てて屑桐の額の火傷にキスをした。
「俺の兄ちゃんはあんたと同じくらい、いやその倍くらい、理性の輪ゴムをかけたような人なんだ。普通やりたいこととか、腹の立つこととかそんじょそこにばらばらちらばってるようなもんだけど、兄ちゃんは全部拾って袋に入れて、輪ゴムで縛ってその隙間から小出しにしてる感じ。人間じゃないよ、ほんと。俺なんか拾い食いしまくってるのにさあ。」
「わかりやすい例えだ。」
「だろ。」
屑桐はまっくらな夜道に赤や青や様々な色の石が道に沿って落ちている想像をした。石はひとつひとつ光っている。
「一つずつ袋から取り出して、相手に害のないものなのかその状況に相応しいものなのか見定めるんだ。相手に渡すものなら、とびきり丸く奇麗なもの。絶対に傷つかないもの。不細工で汚れて棘でくるまれたものは、自分で食べる。構わないさそういうのって必要だって、わかるし、ただちょっと行き過ぎて神経質なところが問題なくらいで。」
由太郎は屑桐の肩口に口を埋めて、くぐもった声で、ただ兄ちゃんは、と続けた。
「俺が拾った棘も、取り上げて食べてしまう。」
屑桐は由太郎の頭をなるべく優しく撫でた。肩口に埋めた由太郎の顔は覗けなかったが、その狭い鎖骨の下で殺された声を殻の内でもがき叩き割ろうとしていた。由太郎は苦しんでいた。──一分おきに息を止められてるみたいだ。あの人の前にいると息が詰まる。複雑に絡まった感情も自分と兄を繋ぐ確かな絆も絶対に繋がってはいない赤い糸の先さえも全部兄に向いて、どこにいても見つけてしまえる鎖となった。嫌だ。あの人がとても好きで、とても憎いのに。
裏表の感情はくっつくどころか、それはまるで卵のように、あの人の今までの俺に対しての行いが積もりに積もって、質量の重い純粋だった感情を覆ってしまった。パキリと割れればあふれ出す、醜い感情を飲み込んでしまう量のあの人を好きというまっすぐな心が。そうしてしまうわけにはいかなかった。それをすることが兄ちゃんを一番困らせることだと知っていた。まっすぐな心は重くそれはもう宇宙論の方程式のような恐ろしい質量を持っている。まさしくダークマター。目に見えないものは質量からしか予測できない。
───あの人に食べさせるわけにはいかないんだ。
「いっそ兄ちゃんが理性を切って襲いかかってくれればいいと思って、思いつく限りのことは全部やった。気づかれないように手探りで、恥じらいとかもう感じなくなって、そんでもいいやってやけくそになってた。そういう意味では随分擦れたかも。オレに色気はからきしだったけど、人間やればできるなあ。俺はどうしても見たかったんだ。にいちゃんにかけられた輪ゴムがぶちっと切れて全部むき出しになるのを。」
由太郎は日記のページを繰るように、落ち着いた口調でポロポロと息次ぐことなく喋っていた。視線の先は天井を越えて遠い道のりを見つめているようだったが、屑桐には見えていない。
「押し倒して押し倒されてセックスして、その時の表情を見たかった。」
屑桐に感じたのは鎖骨の温かさと、心臓の奥の小さな痛みだった。
「後悔してほしかった…。」
そう言ってため息とは違う長い呼吸をした。
消え入りそうなまるで10の少年のような青々しい弱い息が、屑桐の心臓を痛め続けた。あんまりにも痛々しい。手をさしのべれば噛みつかれるくらい若い神経をすり減らしている。屑桐は殴られることを承知の上で、この男を本当の意味で守ってやりたかった。自分のエゴで、自分の都合で、また由太郎が傷つくことを解っていて優しくしてやりたかった。優しく?誰が?こういう人間こそ真のエゴイストだ。屑桐は自嘲の笑みを浮かべて最大限に汚い言葉を心の中で吐き捨てた。
「なにを勘違いしているのか知らんが、俺はお前が思いこんでいるような優しい男ではないぞ。」
閉じていた由太郎の指がぴくりと動いた。屑桐の声は冷たかった。まるで埃の積もった青い豆電灯のカバーグラスのように。「貴様の兄も。」と興味なさそうに言った。「優しくなんぞないのではないか。」
「そういう人間こそ腹はぐちゃぐちゃに黒くて根元はグロテスクなもんだ。お前に優しく振る舞った後で、戻しそうな吐き気を必死で押さえていたんではないか。」
「…知った口聞くな。」
「もちろん、何も知らない。憶測だ。どうだ気分を害したか?」
「害したよ。」
「それは悪かった。もう一度するか?」
由太郎は屑桐を真正面から見て、心底馬鹿にするように笑った。
「今更酷い男のフリしてみせたって、遅いよ。」
(あんたが酷い男な訳がないんだ。)
なるべく顔を見ないように屑桐は由太郎に深くキスをした。
「ん…」
愛撫した舌は激しく強く答えた。まるであんたが嫌いだと訴えるように乱暴に。短い舌をこねくり回して振り回して、温まった肌に肌を押しつける。乱暴に、好きに弄る。殴られても構わないと思った。殴られても構わないから慰めるように優しく抱いてやりたかった。だがそれは由太郎も酷く傷つけ、何もかもに絶望し、下手をすれば由太郎を損なう恐れがあった。文字通り由太郎の意志と魂を損なっていくのだ。
「あ、ああ、ううっ」
乱暴に擦りあげた由太郎の口から漏れる声は泣いているようだった。
なんて不毛な恋なんだ、と屑桐は思った。
この男の兄が、この男のことを心から大切にしているのは昼間見るだけで解っていた。兄弟の情愛とまるで自分の子供に向ける慈しみを惜しみなく与えていた。ただ甘やかすだけのそれではないと言うことだ。後にも先にもこの男にとって何も困らないように、育てるように愛して、そうしてこの男には一生兄がついて回るんだろう。なんとも哀れな話だ。この男の視界に兄がどれほど大きく映るものか。大切に抱きしめるように守るつもりで道をふさいでしまった兄の思いと、そうして行き場を失った男が抱く想いと、まったくかけ離れた位置にあって、それがどちらも寄ることなく長い長い平行線が続くだけ。男は、由太郎は、好きだとは言えないからもう終わっていると言った。言えば兄がボキリという音を立てて寄ってきてくれることを知っていたんだ。自分は何年かぶりに泣きたくなった。吐きたくもなった。サラシが気にくわないといった男が、自分を兄に似ているといったことが酷く胸に突き刺さる。優しくすることを盾にしてエゴイストを貫いた男が、それを最も悲しむ男の前に二人。
「ああ、あっ、んっ。」
「…由太郎。」
「いや、…や、だ」
「由太郎。」
「今、呼ぶ、な、よ」
「由太郎…。」
「ああ…!もう、やだあっ」
(いつかお前は掬われるのか)
(そのときお前の気持ちはどこへ行くんだろうな)
(もしくは弟を弟として可愛がりすぎた兄の心がどうにかなってしまうのかな)
───村中由太郎。お前の兄が俺と同じ思いでお前に優しくしていたなら、それは引きはがせない本能のようなものだから、叱られて欲しくはないのだけど。一つお前の兄が違ったところはお前ほど兄は優秀ではなかったところにも、拭えない心情が少なからずしも浮かんでくること。全く根拠のない勘が、その問題が兄の心の底面に敷いてしまえるほど大きいように感じた。優しくすることで、兄として、兄だからと課することで、降り積もらせるように弱く柔らかい心の部分を覆い守ってきた。決して強くはないのだ。
由太郎が達して、ぼんやりとした意識の霞を掴んでいる内に、屑桐はお前を俺の弟にしてしまおうかと言った。由太郎は泣きながら笑った。
「死んでもゴメンだ。」











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