夜明け前 03





「じゃあ。」
由太郎の指先は屑桐の肩に僅かに触れて離れた。グラウンド上で見せる大口をぱっくり開けた笑顔はまったくいつもと同じ、だが二人の間に流れる空気は確実に変化した。
屑桐が「ああ。」と普段の無愛想を繕って答えたが、その下に心配して堪らないと由太郎が殴り付けたくなるような優しさが見え隠れしているのを、由太郎には感づいていた。
由太郎は目だけで苦笑し、大丈夫、と判るように小さく肩を竦めて放れ、膝当てをならしながらグラウンドの中心へ駆けていった。屑桐もまた見送ることはせずに、すぐに自分の練習に入った。それから昼過ぎの投球練習で組合わさるまで自然に一言も会話することなく、投球練習ではいつもと同じように由太郎が笑顔で捕球を楽しみ、屑桐は最小限の言葉と表情とで答えた。極めて自然だった。誰もその自然さを自然だとさえ思わないくらいに、いつもと同じ時間が過ぎていこうとした。
ただ長い付き合いで、由太郎の目の端が僅かに引いていたことや、会話の瞬間の微妙な遅れを、この極めて小さな振動の違いに敏感に気付けるもの以外は。

「由太郎。」
「お、沖、お疲れ。なあ明日は俺と組まね?やっぱ沖のシンカーも受けとかないと決勝終わった後捕れなくなったらいやだしさ。」
「いいけど、捕手足りてないからどうかな。監督次第だね。ねえそれより夕べはどこにいたのさ。」
「だからー何度も言ってるじゃんよ。道頓堀探しに行ったら道に迷って就寝時間すぎちまって、仕方ないから監督寝るまで待ってたって。あとは夜中にこっそり入り込んでさ。」
「僕夜中に水飲みに起きたんだけど、いなかった。」
「公園のベンチでうたた寝してたんだ。時計見れなかったから何時に帰ったのかわかんねえ。かなり遅くなったとは思うけど。」
「由太郎僕の目見なよ。」
「見てるよ。」
沖は不審そうな顔を、ますます歪めて半ば睨んでいた。苛々として、無気力で力のない喋り方もどこか喧嘩腰で由太郎に食って掛かった。
由太郎はにっこりと微笑んで、大きな目で沖の目を見た。
嘘が苦手だった。いやそれ以前に事実を都合の良いように変えて、人の顔を見て微笑むことが出来るほど器用ではなかった。しかし嘘はつけなくとも、詰問が過ぎるまでもしくは詰問されるような事実を、耳を塞ぎ岩の様に硬く黙ることはもう慣れていた。
「…由太郎。」
微笑んだために細めた目には、意思を自由に伝える光がぎらぎらと瞬いていた。
「…ずるいよ、いつもはいらないことばっかりベラベラと喋りにくるくせに。」
「ゴメンな」
「僕じゃ必要に足りない?」
「そんなんじゃないんだ。」
由太郎は少し困り顔になった。沖はそれを見て満足したように微笑んだ。
「沖じゃ駄目だって言ってるんじゃないんだよ、誰でも駄目なんだ。」
「判ってるよ、切羽詰まった顔してるもん。そういう顔するときは、決まってだんまりなんだから。」沖の手の甲が軽く肩を叩いた「どうせ嘘つけないくせに、すぐにばれて泣き付く羽目になるよ。」
由太郎は微笑んだ。
「そーかも。」
意識していなかった詰まった息が飛び出した。いつの間にか固まっていた肩の筋肉がするりと解け、指先が温まるのを感じた。ホントに嘘がつけないんだな、と由太郎は自身に呆れるように呟いた。

「君のそういう顔、前に一度見たことあるよ。」
宿にはいるまえに沖はそういった。







日が昇る前にあの冷たい明かりの布団部屋を片付けて、大部屋の寝所に忍び込んだ。各々で整えるはずの寝具はきちんと自分の場所にも敷かれており、無人の布団があらゆる人の息がするところでそこだけぽっかりと役目を失っていた。きっちりと折り込まれたシーツが余計に自分の立場を責め立てた。今更何の用だと言わんばかりに。
由太郎はしばらく立ち尽くして、できればこのまま練習時間までの時間を早送りできないものかと願ったが、足元からじわじわと這う気持ちの悪い類の疲労が睡魔を伴って侵食し始めたので、倒れるように寝転びぱりっとした肌触りの硬い清潔なシーツに肌を触れざるを得なかった。シーツを掴むともうぐにゃりとしたシワが寄った。いいぞ、と由太郎は呟いた。声はでなかった。シワは釣り上がって怒っているように見えた。
由太郎を襲う気持ちの悪い疲労感はやがて背中全面から忍び寄ってきた。きちんと見ることのないように避けていた兄が背後で静かな寝息を立てているのだ。
由太郎は強く目をつむって眠ろうとした。しかし眠気は体を侵食しても、奇妙に脈打つ心臓の鼓動に打ち勝ってはくれなかった。意識は覚醒したまま、指一本動かすのも辛い。このシーツを折り込んだ人物に気付いてしまった。なにせ長年この折り方を見てきたのだ。第一よく考えれば、行き先も告げず姿を消した、手綱の切れた暴れ馬のような弟に布団を敷いてやるのは彼しかいないではないか。
兄を思って他の人間に抱かれ、その兄が敷いた布団に何食わぬ顔で寝ているのだ。
気持ち悪くなるはずだ。最低だ。でも由太郎は呟かずにはいられなかった。

「……屑桐さん。」

呟いた後に、そう呟いたことに、由太郎は内心静かに驚いた。
───また助けてほしいと思ったんだ。
我が儘で八つ当たりしといて、随分虫がいい。今更ながら、あの刺々しい感情の塊を受け止めてくれたことが嘘の様に思える。あの憎々しい誰かさんみたいな性格でも、血のつながりもない自分なんぞにあれだけ酷く罵られてまるでその生き方を否定する様なことも口走ったのに。───…いや、違う。兄に似ていると思って貶めたあの人は、兄とは違った。基本的な構造は同じで、優しくて、責任感が強くて、気にくわなくて、情けない。しかし兄が絹布で風を送るような柔らかなものであれば、あの人は深い海に鉱物を沈めるように、冷たく深い全て飲み込んでしまうもののようだった。どちらも腹が立つポイントにはかわりないけれども、自分は、あの男に飲み込まれるのが手の先足の指体の末端で心地良く感じつつもあった。
 その存在は思ったよりずっと由太郎の心に重く広く残った。
海は深く、鉱物はずっと大きい。その波紋は幾重にもなってどこまでも広がり由太郎の中をかき混ぜた。
「屑桐さん。」
その日分厚い雲が空を覆っていた。日の光が差さぬ白んだ空で、由太郎はいつが夜明けだったのかもわからぬ朝を迎えた。




分厚い雲は夕方を過ぎてもまるでその空に繋がれたようにどっしりと頭上から流れることなく、むしろ一層分厚くなっていくようにみえた。今にも泣き出しそうに。爽快とは言えない湿り気を帯びた空気がダウンを終えた後の火照った体をひんやりと包む。
「由太郎。」
ぞろぞろと宿先に帰っていく球児たちの群れの中、落ちてきた声に由太郎は心臓の先がヒヤリと冷やされる感覚がした。震えそうな指先と、引きつった筋肉に活を入れるように引き締め、いつもよりも過剰な笑顔で振り向いた。
「なに?兄ちゃん。」
魁は昨日までの魁と寸分も違わず同じだった、だが由太郎にはもう随分会っていなかったような錯覚がする。昨日と今日までの距離が随分と長くある気がした。
魁は非常に心配そうな顔色をしていた。
「いや、おぬし顔色が良くないのではないかと思ってな。」
「ええ〜そんなことないよう。ベンチで寝たのが良くなかったかな。あれってマジ寝心地最悪。」
「由太郎…昨夜のような不始末はもう起こしてくれるなよ。みなが心配するではないか。まったく我が弟ながら呆れたものだ。」
由太郎はへへ、と笑ってごめんなさーいと軽く言った。
「だって道頓堀みたかったんだ。思ったより遠くて結局行けなかったけど。」
「当然だ、大阪が広くないからといって甘すぎるぞ。…ん?」
「なに?」
「隈が…。」
魁の伸ばされた指先が由太郎の目の下を撫でた。
その動きが、やたらゆっくりと、スローモーションをかけたように映った。由太郎は身の芯が震えて髪の毛の先まで固まった。指は目の周りの薄い皮膚を優しく擦る。顔が近い。またあの感情が、そのまま飛びついて抱きしめられたいと思う気持ちとぶん殴ってやりたい気持ちが一緒に混ざった非常に疲れる感情が波のように足下をさらう。
 由太郎は驚いた。普段なら堪えきれる、触れたくらいでは指先が固まるほど詰まったりしないのに。今は大波のような激しい衝撃がドカッとぶつかって立っていることさえ耐え難い。なんで?───由太郎の脳裏にさっと一人の影が過ぎった。
「由太郎?」
「い…、たい」
「何?」
「腹、いたい。冷やしたかな。俺、トイレ、兄ちゃん、俺の分のメシ取っておいて。」
なにせ由太郎は嘘が下手なので、もたつく足を引きずって顔を伏せてさも痛そうに腹を抱えて逃げるのが精一杯だった。魁の声がかかるのが怖くて、出来るだけ明るい声で痛い痛いと言いながら逃げた。誰にも擦れ違わなかったのは幸いだった。さすがに慷慨しようかとなんとか耐えて堪えた赤い顔を、見られて上手い言い訳をする自信はなかった。この感情の高ぶりはともすれば泣き出してしまえそうで、ならばそんな顔をしているんだろう、とどこかで冷静に考えている自分がくだらない。冷静に考えて───何故こんなにも糸が、たががグラグラに緩んでいるのだろうか?相変わらずどうしようもないほど、魁の顔を見れば嬉しくて、馬鹿みたいに高揚して、全力で自制しないとその四肢が今にも魁に飛びついてしまいそうなのに。心配そうな顔を見るほど自分に嫌気がさして、殴ってしまいたい気持ちは変わらずこみ上げてくるけども、それでも今までは、魁の迷惑を増やしたくないから、魁を不安がらせたくないから我慢した。なら今のは?
「…っく、」
切れ切れになる呼吸に混じって、由太郎は全力で走ったまま、くずきりさん、と呟いた。息に溶けて誰にも聞こえなかった。そのはずなのに。

「由太郎?」

今一番聞きたくない声が、聞きたかった声が、自分の横を通りすぎた。
僅かな、振り向きたいと思う、正直の心に抗う隙がなく、ほんの一瞬振り返った。
何故そんな事をしてしまったのか。由太郎は走りながら、名前で呼べと言ったことさえ後悔した。走り続ける由太郎の頭の中で自分を呼ぶ声が反芻する。魁の声を思い出しても、負けて消えてしまいそうなくらい強い声だ。
振り返った時見たものは屑桐の長身な体で、顔はろくに見れなかった。だがこちらの表情はばれた…そんな気がした。振り向いてしまったことはもう取り消せない。由太郎は出来るだけ遠く、遠くに走っていってしまおうと思った。魁も屑桐もかけらも存在しないところに行ってしまえたら。しかし容赦の無いように、後ろから名前を呼ぶ声が聞こえる。魁でさえそれをさせたくなくて、ギリギリに緊張を保って防いだのに。
「おい、」
声が近くなってきて、由太郎はますます力を込めて走り出そうとした。だがその前に一寸早く、屑桐の大きな手が由太郎の腕を掴んだ。
「うわっ」
急に繋がれた体はバランスを失って前のめりに倒れかけ、屑桐もその体につんのめってその腕を一瞬手放した。その隙に由太郎は一歩踏ん張って、足の血管が悲鳴を上げそうな力で地面を蹴りまた走り出した。一瞬熱い掌に捕まれた腕が切ないぐらい冷たく感じた。由太郎は走って、走って、非常階段への角を飛ぶように曲がると、また背後から「おい」とさっきより怒鳴り気味の声が聞こえた。思ったより近くに。
由太郎は今度は振り返らなかったが、振り返らないことで余計に耳が声を拾う。力を入れて地面を蹴って、力を入れすぎて、足がもつれて上手く走れない。非常階段口の扉をくぐるとき、今度は長い腕が由太郎の前に突き出され、それが首から肩に絡まり押し開けられた非常口にねじ込まれる形になった。非常階段の扉は重く、鈍い動きで大きな音を立てて閉まった。
窓から差し込む明かりが空気の埃をキラキラと反射させて、それをかき回すように二人の荒い息が暴力的に響いた。
「何、を…何で、逃げた。」
「な…なに、も。」
「嘘を…。」
屑桐は後ろから由太郎を強く抱きしめたまま、扉のもたれてずるずると座り込んだ。由太郎も強制的に座るかたちになった。
「…離、」
「言うまで、離さん。」
由太郎は目を閉じて、観念したように屑桐の腕の中にもたれた。そして呟いた。
「こんな風に兄ちゃんとも、おいかけっこしたら良かった。」
それからしばらくは二人の若干落ち着いた呼吸の音だけが響いていた。
「泣いているのか」
「泣いてない」
「泣きそうな顔をしていた」
「でもまだ泣いてない。」
「そうか。」
でも泣きたかったろう、と屑桐は独り言のように呟いた。由太郎は返事をせずに、屑桐の腕の中で自分と相手の脈の音を聞いた。泣きそうだった…いったいそれは何が原因だったんだろう。屑桐よりも長い距離を全力で走ってきた由太郎はまだ呼吸が整わず、脳に酸素が足りなくて視界も思考も薄くぼんやりしていた。乾いていた服と肌着がまた新しい汗を吸って、強く自分の匂いが漂うのが恥ずかしかった。
「…離せよ。」
「逃げるか?」
「逃げない。逃げられない…足がもう動かないから。」
伸ばされた由太郎の足が細かく震えているのがわかった。屑桐は腕をゆるめて、由太郎の膝にそっと触れた。
「…っ。触、」
「急に走ると、膝に負担がかかる。膝を故障すると何をするにも障害が生じる。チームの一員である自覚があるなら、もっと自重しろ。」
屑桐が由太郎の膝を解すように柔らかく揉むと、由太郎の肩がぴくりと反応した。大きな手が自分の体を信じられないぐらい優しく触るのが見ていられなかった。昨夜は、手荒に抱かれた。それでも壊れ物を扱うように優しく触れた。自分がそうしてくれと望んだこと以外は、腹の立つほど、あの人と同じくらいに。抱かれている間も指先は視線は優しかったんだ。割れやすい卵のように組み敷かれたんだ。由太郎はもう涙すら流すことは出来ず、カラカラに乾いた笑い声を立てて自嘲した。おかげでまだ呼吸は乱れて、脳の薄い霧は晴れなかった。明るい非常口の、埃の輝いて浮かび上がる狭い隙間は、何もかも昨夜の布団部屋と逆に見えた。恐ろしいぐらい乾燥している。
「何がおかしい。」
「あんたのせいだ。」
「何が。」
「最初から最後まで。」
「そうか。」
「あんたが許すから!」
由太郎は屑桐の首を掴んで睨んだ。そして乾燥した非常口の部屋がいっぱいに詰まるほど悲痛な声で叫んだ。
「俺は俺の感情は我慢が効かなくなって、今にも爆発しそうじゃないか!甘やかしちゃいけないのに、あんたは最初から最後まで俺を甘やかし通しだった!俺はあんたに八つ当たりして、あんたがキレて俺を殴ってもらいたかった!なのにあんたは俺を許したんだ!俺は、俺は誘惑に勝てるほど強くはないのに、あんたは、殴らなかった。あんたは俺を、受け、受け入れようと、よりによって…」
ほら、今も、と掠れた声で呟いた。由太郎の感情の枷は確かに壊れて、爪の先で撫でてもこぼれだしそうなくらい緊迫していた。そしてそれに振り回される由太郎は憔悴しきっていた。屑桐はそんな由太郎を、ぐちゃぐちゃに膿んだ致命傷の傷口を見るような気持ちで見つめていた。涙を見せないのが余計に痛ましい。だが屑桐には由太郎を殴ることなど出来ないのだ。憐れみと贖罪と義務のように生まれる保護欲と、そしてさらに、不確かなだけど確固たる、強く屑桐に押し寄せる意識によって。
「俺では駄目か?」
屑桐は由太郎の首に回した腕にまた力を入れた。屑桐の息が由太郎の耳にかかり、由太郎の神経は嫌でもそこに集中してしまう。しかし今はそれすら忘れてしまうほど、由太郎は我が耳を疑った。
「…今なんて。」
体はがっちりと抱き留められて、お互いに微動だに出来なかったのが、この埃っぽい部屋に忘れ去られた一つの銅像みたいに形のみの存在としてそこにある無意味な物質になった気がした。由太郎の感情が起伏して、泣いたり怒鳴ったりまたは呆れたりする前に、屑桐がいち早く言葉を発した。
「俺では駄目か、と聞いた。お前がお前の兄にぶつけたかった憎悪も否定も悲しみも、お前の兄に似てるなら、俺にもその罪がある───おまえの軸で考えてそれを罪というならな。実際お前はそういう理由で俺に絡んで、八つ当たりを抜きでも俺に腹を立てた。お前俺が憎いだろう。そうだろう?ならそうやって一人で爆発するまで堪えて、泣きながら自分を傷つける必要はないんだ。好きなだけ腹を立てて、好きなだけ文句を言えばいい。」
由太郎は信じられないというような顔をしていた。
「ば、馬鹿に、」
「もちろん、俺はお前の兄にはなれないから、肝心なところでは役に立たないだろう。だが、自惚れでないことを望むが…お前の喫水線を計ってやれる事が出来るかも知れない。揺らいで、傾いでも、その重みに振り回されることがないように、少なくとも手に余る水を自分で飲むことはない事はないように…烏滸がましいとは分かってる。だが、」
僅かに傾いた腕を引き離し、由太郎は屑桐の顔を奇妙な形の虫を観察するような目で見た。小さな声でなんで、と呟いた。屑桐は由太郎の顔を覗き込んで、辛抱強く喋った。
「俺がそうしたいんだ。やってみるだけでもいい。やらせてみてくれないか。」
「だから、なんで。何のために?」
「お前は兄が好きか。俺がお前にしたように、兄にそうされたいと思うか。」
そう言って屑桐は由太郎の唇を親指で撫でた。そのままキスが欲しいと、体の芯が率直に求めたが、さすがに今夕べのような手口で屑桐に強請るのは憚った。あんたが俺にしたように?──由太郎は昨夜から今までの屑桐に、魁を照らし合わせて考えた。キスをして裸に剥いて体中愛撫されて痛くても一部で信じられないほど繋がって、腿の裏のほくろまで晒される。
キスも体を重ねたことも怒鳴ったりけなし合ったことも全部考えて、頷いた。
「されたいと思う。」
屑桐の瞼が僅かに動いた。
「なら。」
「ちょちょっ、待って。やっぱり理解できない。あんたがしたいって、それどういう意味?結果的に、俺に優しくするだけじゃないか。」
「そうでもないだろう。お前に優しくしたところでお前が安らぐことは出来ないんだから。むしろ逆か。それでもその時、お前がそうして欲しいといった事を実行することで、波が去るまでの平行機の役割を担う事ができはしないか、と思っている。」
「ステロイドだ。今は良くても、俺のためにならない。俺のために、甘えるなって撲ってくれないの?」
「俺にはお前を撲つことはできない。」
由太郎の表情が凍りついた。乱れた髪を屑桐はそっと撫でた。酷いことを言っていると分かっていた。由太郎の目からみるみるあの強い光が失われていく。光の無くなった由太郎の目はどれだけ深く濃く混沌に満ちているのだろうと、そのことを想像すると屑桐は目の前で腹を切っても自分は決して許されないだろうと思った。また許されるつもりがないことも。
「俺にはお前を撲つことはできないんだよ。」
ボツ、ボツと重くへばりつくような音がした。意固地にも動こうとしなかった暗く分厚い雨雲がとうとう泣き出して、大粒の雨が窓を打っていた。明かりを大きく取り入れていた非常口も、今は壁の白さが目立って浮き立つほどに辺りは薄暗く、ものすごい早さで光を失っていこうとしていた。ただ相変わらず乾きは酷く、由太郎の口の中に残った僅かな唾液ですら持って行こうとされていた。体中に水分が足りない。脳に酸素が足りない。
由太郎は未だ晴れない頭の中の薄い霧のせいだと思うようにした。
「よりによって…優しくするなんて。」
顔が思うとおりに動いてくれなくて上手く笑えなかった。ましてこんな乾いた部屋で涙が出るはずがない。由太郎は空っぽな笑顔で屑桐に触れた。今言われたことは、同時に自分が屑桐に対して何をしても許されるということだ。いくら皮膚に触れても、傷つけても良い。
「どうせ俺が暴れて嫌だと喚いてもそうするんだろ?」
「俺はお前を随分気に入ってしまったようなんだ。すまない。」
「…駄目だよ。あんたじゃ駄目なんだ。」
由太郎の声は嬉しそうでいて、乾いていて疲れていた。
「だって俺はあんたを許さないよ。今日掛け違えたものを、後になってうんとすごい距離のずれになっていても、一生かけてやり直しさせるから。」
屑桐は由太郎の耳にそっとキスをした。
「そのかわり、話すよ。俺があんたに望むのは、それを聞いて、後悔してくれることだよ。兄ちゃんに似たあんただ、きっとあんたも…」
由太郎は目だけで微笑んだ。もう一度今度は違う場所にキスをしようとした屑桐を、ゆっくり落ち着いた動作で止めて、絶望の淵で身ぐるみを全部投げ捨てるように、ぽつりと零した。
「話すから、聞いて。」


その日は一度も日が差さなかった。一日中日の光を浴びることなく、それとも気付かずに湿った生ぬるい空気だけが体にまとわりついてすっきりしない汗だけ浮いて芯の根元は冷えた。循環せず不快な塵がつもり足を絡めるような。
由太郎の夕食が冷えるころ、帰りを待ちわびていた二人の人間が、その震える空気の微妙な違いに気付き始めていた。









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