デイ 1






冴え冴えとした蒼だった。明かりを落とした街が蒼いフィルムを被せられて、なにもかも統一された色調だった。際立つものは何もなかった。ぼっかりと置いていきぼりにされた月でさえ。沖でさえ。
あまり格調のお高くない団地の扉は錆びて重くてくすんだ紺で、気の滅入る色だったが文句は言えない。親父の稼ぎで賄える範囲の家だからだ。団地。その玄関。やっぱり立派とは言えなくて、出てすぐの廊下の壁にはヒビが走り塗装は爛れた模様のように剥がれていた。今日はそれも悪くなかった。それも青かった。沖はその前に立っていた。夏の早朝のこの時間帯だけの貴重な冷たい空気が青のフィルターと同じくらい満遍なく流し込まれていた。沖はサイズの合っていない白いシャツと濃紺のハーフパンツという簡単な出で立ちで帽子は取っていた。制服とユニフォーム以外の姿は初めて見る。シャツもやっぱり薄青く見えた。髪は相変わらず奇麗な青だった。優しくも強くもない風が髪と裾を揺らす。沖は身動きせず玄関のドアを開けたままの俺をじっと見ていた。息はしていた。肌は人形のように青白かったけどリアルに生きていることは確信できた。
外には車が過ぎるときに走る風のような音が、人がいてこそ作られるような柔らかな騒音が絶え間なく聞こえていた。その騒音と冷たい空気と青のフィルターの街は混じり合って完成されていた。そこに余計なものも目立って推薦するモノも何もなかった。全てが均一だった。その中で、月と沖はワンセットだった。どっちも置いていき堀にされたようにその世界に埋まっていたのだ。
ずっとそこにいたかったが、話しかけなくては、とも思った。なんと?
口を開いたら、暗転。




「おはようございます。」
朝練前の部室は相変わらずぼやけた日差しをかき集めたような蒸し暑さで、座っているだけで首筋にじんわりと汗をかき始めていた。初夏にはまだ早い天気の良い春の終わりはいつだってこんなもんだ。3年過ごしてきたなじみの部室を目だけでぐるりと見回した。扉から3番目のロッカーの前で由太郎が、その後ろで沖が着替え始めていた。まるで対照的な表情をして、何か喋っている。8:2くらいの割合で。由太郎が話すほとんどのことに沖はろくに相槌さえ打っていないようだった。しかし由太郎は構わず喋っていた。人が多くて何を喋っているかは分からない。沖はいつもの帽子を被っていた。
今朝のあれは夢だったんだろうか。
蒸し暑い部室の中ではあのひんやりとした朝の空気すら本当だったのか疑問だ。非常にリアルだったが、本当に現実だったらおかしな絵だ。いやおかしな絵ではなかった。非常に自然だった。完成していて余分なものはなかった。間違いなくあれは自宅。団地の玄関。沖の後ろに見えた景色も、道路一つビル一つそのままだった。間違いなくうちの玄関。だとしたらやっぱりおかしい。自分の家の場所すら知っているかわからないいち後輩が、日の光がみえないくらい早朝にただぼおっと立ちつくして、いったい何の用だったっていうんだ。
2年下の後輩。小生意気でネガティブ思考が巣くってる暗いチビ。しかし腕のいいピッチャー。ダチの弟のダチ。俺の知っている沖の情報なんてせいぜいそんなもんだ。俺は沖のことを知らない。夢だとしても、何故あいつが出てきたのかわからない。下の名前だって忘れた。
俺は沖のことを知らない。
「おい、トシ。」
「なんだい。って君、今日は馬鹿に早いじゃないか。いつもはユニフォームのまま滑り込むくせに。」
「せえな、夢見が悪くて目が覚めちまったんだよ。なあそれよりあいつらさあ、いつもあんななの。」
「なに?」
沖と由太郎はほとんど着替え終わっていて、沖が制服を几帳面に畳んでいる後ろで由太郎がまだ何か喋っていた。二人をちょいちょいと指をさすと、トシは彼らがどうか?と言いたそうな奇妙な顔をした。
「ユタ坊と沖。さっきから見てたら、沖はほとんど喋ってねえのな。」
「ああ…。でも彼らはあれで成り立っているんだよ。今更君が口を出す事じゃないだろう。」
「成り立っている?お前にそんなことわかんのかよ。」
トシはやれやれといった仕草で肩をすくめた。
「友達という定義が君の思っている一つの式だけではないと言うことさ。」
「あん。」
「喧嘩腰はよくない。頭が悪い。嘘だと思うならよく見ていて御覧よ。彼らは誰もが納得するほどバランスのとれた友人だよ。ファラオの妻とその弟が持っていたヒスイの首飾りのように、ピッタリとくっつき合うことが出来る。すばらしく美しい的確な例えだ、うん。反りが合うとはそういうことさ。それでこそ最高の友と言えるんじゃないか。君でなくとも誰も彼らの間に入ることは出来ないと言うことさ。またそれも望んでいない。要するに。」
またそれも望んでいない?
もう少し情報が欲しかったのに、トシは気持ちよさそうに喋って終わってしまった。勝手な解析とは思うが、なかなか信憑性が高い見解だった。確かにあの二人はそれで成り立っている。由太郎が喋ることにろくに相槌を打たなくても、由太郎は腹を立てたりしない。おしゃべりで目についたものは何でも口に出してしまうのだ。独り言のように一人で喋って処理していくほうが正しいものもある。あれで成り立っているのだ。少なくともここにいる部員はみんなあいつらのことをこれ以上ないペアだと思っている。馬のあった最高の親友だと。
しかし、なら、どうして、置いていき堀にされたような顔をしていただんろう。月と一緒に。
冴え冴えとした青の世界は色々なものが動いていた。風もあったし音もあった。味気ない統一された色もあった。完成された世界は何か足りないようで満ちていた。
今でも思い出すと、体がざわめく。走り出したいような気分だ。
少なくとも、なにも望んでいない顔をしていなかった。
「しかしあの二人がどうかしたのかい?」
「別に。」
夢のことは(夢と思えないほどそれは表象的だったのだけど、今は夢としておく)誰にも話したくなかった。端々しくなくともあの閉じこめられた世界は純度の高い水のようにとても透明で、汚れやすそうに見えた。昔金色の絵の具を宝物だと思ってそっと引き出しの中にしまっておいた時のように、誰の手垢もつけずに、より真空に近いところに閉じこめておきたかった。
扉の前のロッカーを見るともう二人はいなかった。ただの先輩というのはそんなものなのだ。用がない限り挨拶だけでいい。今朝のあれはどんなにリアルだったとしても、常識でないシチュエーションで起こったことは常識でない場において口に出すものだ。朝練前の部室は適切ではないということ。

その日の放課後、また彼らを見た。沖と由太郎は大体が二人で行動していた。渡り廊下を歩いている姿を偶然教室から見下ろせた。本当に見た、だけだった。由太郎がまた何かをニコニコと喋り続け、沖は朝よりは対応しているようだった。由太郎の方へ声をかけようか迷ったけども結局やめた。由太郎は景気よく喋り続けていたし、沖は間違っても歓迎してくれはしないだろう。こうして見ると、身長の兼合いもあってか二人が一緒にいることはとても自然で似合っていた。沖は由太郎に似合っていて、由太郎も沖に似合っていた。由太郎の方はあの性格が愛されて友達が多い。どんな場に置いても由太郎は自然にとけ込めたが、沖はどうだろうか。沖が由太郎以外の誰かとつるんでいるところは見たことがないし、何かの集団に混ざることも難しい気がした。純粋な絵の具の固まりのように、金の絵の具のように、それ単体で光を放つ複雑に製造された特殊な色彩はどうしても混じり溶け込むことが出来ないのだ。頑なにその色を失おうとせず、混じれば混じるほど不愉快な色味になっていく。色味が強すぎる。構成が複雑すぎる。そして純粋なんだ。
渡り廊下が終わる手前で、由太郎が何かに気がついてしゃがみ込んだ。靴ひもを締め直しているようだった。沖が見上げた。目があった。心臓がドクンと不自然な動きをした。目をそらしたいようなずっと見たいような、不思議な感情が音もなく頭から被さって、血液の流れを鮮明に感じた。
沖と目があった。その確信はあった。沖は4、5秒でふいと反らし、靴ひもを結び終えた由太郎と何事もなかったかのように去っていった。何事もなかったんだけど。俺の血液の躍動はしばらく続いた。
渡り廊下はくすんだ青だったが、それは今朝の夢の色調からすこし外れた青だった。透き通っていて、奇麗な青の階調でなければならないのだ。しかしその渡り廊下と太陽の間の沖もやはり夢の中の沖だった。間違いない。そしてその目は確実に訴えてくるものがあった。青の世界。ろくに話したことのない小生意気な後輩が俺に何を?

その朝彼はまた訪れた。青の世界を伴って。



「なんか用か?」
その世界で自分の声は出せないものだと思っていた。口を開けば声は驚くほどするりとでてきた。相変わらず団地の玄関。廊下と低い壁。その向こう側の静止した見慣れた街並み。青の階調。冷たい空気。置いていきぼりの月。シャツとハーフパンツの沖。相変わらずそいつは黙っている。声をかけても一ミリたりとも動いたりしない。ごうごうと柔らかい騒音が鳴り響いていた。いったいこれがなんの音なのかわからない。
「なんでこんなところに来たんだよ?」
返事はない。視線は全くそらさない。しばらく待ってみた。ほんの数分か、数十分かわからない。そこに時間の観念はなかった。沖は相変わらず無言のままだった。月と同じ顔をしていた。
「一回きりかと思ってた。夢だと。でも夢じゃねえ。なんか言いたいことあんだろ?」
沖は黙ったままだった。諦めて大きくため息をつくと、ぴくりと肩が揺れた。髪と裾以外に初めてその世界で動いたものだった。顔を上げて沖の顔を見ると、置いていき堀にされた顔に、さらに深い悲しみが刻まれたようにみえた。慌てて謝りそうになったが、その悲しみは今そのため息でついた傷ではなくて、もっとずっと引きずっていた長い悲しみがじわりじわりと浮き出てきたようにそれのように思えた。どうすればいいかわからなかった。心臓が嫌な感じでせき立てる。どうにかしたいと焦る。なんと声をかければいいのか分からない。足も動かない。「入るか?」と尋ねてみた。この青の世界が狭い団地の自分の家に繋がっているとは思えなかったけども、ほかに何も思いつかなかった。沖は黙って首を横に振った。
月がかすみ、青の世界が色調を失おうとしていた。夜が明けるでもなく、色調が消え失せるのだ。それがこの世界が閉じるときなのだ。もう終わってしまう、と感じた。ひとりぼっちの沖が消える。
「お前と話したい。学校で捕まえる。ここの話をしても、へんな顔すんなよ。」
沖は頷くでもなく、しかししっかりと聞いてくれたように感じた。色調は失われ夢の終わりのように突然おわった。重たい団地の扉をばたんと閉じるように。チェーンをかけて鍵を二重に閉めて、次に開く時を待つしかない厳重さで閉められた。そうしていつも通りの朝が来る。胸のざわつく朝が。











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