デイ 2


猫だけが寝ぼけた掠れ声で一言にゃあ、と見送りしてくれた。俺はそれに人さし指を立てて「しっ」と短く注意した。ろくに髪もとかず朝飯も食わず、弾かれるようにして家を出た。
朝焼けがいつもの川面により激しく輝き目を焼いた。歩こうとしても心が急き立てて、体がそわそわと落ち着かないので足がもつれそうになった。いつもより早く川面の側を歩く。この朝焼けの具合からみてもまだ随分早そうだ。そういえば時計を見なかった。川面の輝きを横目で見ながら、俺はまた沖のことを考えた。夢の沖だ。もう少しで口を開いてくれた気がする。少なくとも何かを伝えたがっていた。夢の中の沖は何もかもと同化してぴったりとはめ込まれていたが、現実で見るよりその輪郭がくっきりと現れていたようにみえる。いつもより線が太く、そこに沖が生きて呼吸していることを嫌でも実感させられるみたいな。
今自分の世界は川面の照りで赤く眩しく雑草の一つも輝いている。この世界とあの青の世界をとても同系列に並べられなかった。でもあれは夢のようで夢でないのだ。

部室には誰も居なかった。時計を見るといつもより40分も早かった。少し力が抜けて、荷物ごと机の上に腰掛けた。ため息に似た息を吐くと、その音は部屋に奪い取られるように吸い込まれた。誰も居ない部室は静かで、まだ暑くはない。窓を全部開けると生まれたての朝の風が上品に入ってきた。ここで寝てしまえば誰かが入ってきた時に起こしてくれるだろう。寝ればもう一度あの夢に会えるかもしれないとちらっと思ったが、いやそれはない、とすぐに取り消した。あの夢は時間が限られていて、日が昇った朝ではだめなのだ。そして俺の家。団地の玄関前でなければいけない。何故団地の玄関なんだろう。空間が捩じれて夢と俺のコネクトになっている。いや俺と沖の?
片膝に顎の乗せたまま、窓の外をちらりと見ると大会前のテニス部が気合いを入れてランニングしていた。いっちにー、いっちにー、と角の丸いかけ声と幾人の足音。ざっざっざっざ。マネージャーらしき女の子が大きなヤカンを二つぶら下げて歩いている。がらんがらん。これが柔らかな騒音だ。目を戻して時計を見るとまだ5分しかたっていなかった。もどかしい。沖に会いたい、と強く思った。家を出てから、もしかしたら昨日の朝からずっと思っていたのかもしれない。
窓から差し込む早朝の光はとても鋭く部室の床から壁を斜めに切り込んでいた。明るい場所と影との境目に、今にも光に溶け込んでしまえそうな沖の幻が立っている。相変わらず薄い影を背負って壁にもたれながら、暗い顔で俺を見る。なにかを伝えたくて堪らない顔をしながら。俺はそれに向かって出来るだけ優しく微笑んだ。
「…こっちこいよ。大丈夫。」
グラウンドを一周してきたテニス部の団体が部室の前をすぎて、切り込まれた光の柱に影をつくって目まぐるしく走っていった。まるで砂に書いた文字をぐちゃぐちゃに踏み付けられるようにして沖の幻は消えた。こんな風に、と思った。こんな風に、沖の声も潰されていたのかも知れない。伝えたくてたまらないという顔をしているのに。沖の顔をそれまでしっかりと見たことがなかった。目が合えば反らすような後輩だったから、長く見るのはよしたほうがいいんだと思っていたから。
後悔の水が非常に浅く、足元を浸すように流れ込んできた。鞄についた猫の毛を払いながら、小さくため息をついた。




「───先輩。うどん先輩。なあ、起きた方がいいよ。」
強く揺さぶられて目を開けると、眩しい部室と何人もの知った顔が飛び込んできた。一瞬ぎょっとして、それからそれがはっきりと由太郎の顔だと判ると、まだ拭いきれない眠気がぐいぐいと足を引っ張ってしつこく瞼を落とした。寝ていた。それもかなりぐっすりと。
「うどん先輩ってば。なんだって部室で寝てんの?起きてよ。もう着替えないとやばいってば。」
「小饂飩君、君まさかお家が狭いからといって部室をプライベートなことに使ってはあるまいね?」
お前の家じゃあるまいし、と喧嘩をふっかけたかったけども、あんまりにも眠くて口も自由に動いてくれなかった。まだ焦点の合わない目で時計を探すと、針は7時前を指していた。
「うわ、やっべえ。」
「だから言ってんじゃんよー。早く着替えて。」
枕にしていたバッグから由太郎が荒っぽい作業でユニフォームを引っ張り出し投げてよこした。あくびをかみ殺しながら礼を言った。首の後ろに汗がじわりと浮いていた。たくさんの人間が着替えているせいで埃が舞い上がってきらきらと光っている。部室は眩しすぎて顔の判断すらつかなかった。制服を脱いだ形のまま放り投げて、ユニフォームに袖を通す。そこではっとした。
部室をぐるりと見回し眩しい眼を無理矢理凝らした。沖が居ない。
「ユタ、ユタ坊。」
「なに?もう待たないよ。俺も監督に怒られるんだから。」
由太郎はすでに用意し終わっていて、部室から出ていく寸前だった。慌ててズボンを上げて靴を履き替えて、走って由太郎の肩を掴んだ。由太郎が奇妙な顔をした。俺は(慌ただしい朝の部室の前でそんな必要もなかったんだけども)耳打ちするように小声で訪ねた。
「なあ、今日沖は?」
「え?遅刻。もしかしたら休むかもだって。体調よくないから。」
遅刻。さらりと言われて、まるで別の単語のように聞こえた。まるで考えていなかった。学校にくればあえるものだと思っていたんだ。遅刻。まるで振られるみたいな否定的な言葉に聞こえた。
眼に見えて落胆する俺に、由太郎が眉間にますますしわを寄せて覗き込んだ。
「どうしたの?沖に用?うどん先輩が?」
「あ、いや、別に用ってほどのもんじゃねえんだ。うん。沖の奴ブルーデーかな?休むこと多いのか?」
「ブルーデー?多くはないけど、たまに。体あんま強くねえみてえ。」
そうか、そうかと無理矢理納得させた俺に、由太郎は首を傾げて、それからちょっと警戒したように言った。
「うどん先輩が沖のこと聞くなんて珍しい。なあ、まさか沖を叱るんじゃねえよな?」
叱る?またしても別の単語のように聞こえた。脳に届くと、慌てて首を振った。
「まさか。」
「本当か?」
「本当だよ。なんで俺が沖を叱んなきゃいけねーんだよ。理由がねえ。」
「だって用がなきゃ呼び出さないだろ?」
「用ならあるさ。」
「本当?何?」
「待ち合わせ。」
由太郎はまた不思議な顔をした。顔に疑いの色を塗ったみたいに不信な気持ちが全面に出ていた。体中でそんなわけないと言っている。
「…ならいいんだけど。」
由太郎はまだ疑いながら言った。
「うどん先輩のこと信じてるけど、俺沖をいじめるやつ許さないかんな。」
「誓って。イジメカッコワルイ。」
宣誓するように右手を挙げながら言うと、由太郎は「よし」と言ってやっと笑った。出口でごたついたせいで後ろで他の部員が文句を言った。
──遅刻?──その日中はずっとそのことを考えていた。
学校にくれば無条件で会える気がしていた。一方的とはいえ学校で会う、と伝えもしたのに。もちろんそういう可能性が0な訳じゃない。風邪を引いたり、出かけに事故にあったり、身内に不幸がおこったり、そんなことは誰にも予告なしで突然襲ってくるものだからだ。しかし…違う。沖の休んだ理由はそういう偶発的なものではない。自分で判断して自分の理由でいかない、ときめた遅刻なんだろう。そんな確信があった。俺か?俺に会いたくない?勝手にうちの団地の玄関まで来ておいて?そうかもしれない。
沖と俺はお世辞にも波長が合うとは言えないと思う。何故夢で繋がったのか、あるいは沖が選んで会いにきたのか、判らないがあまりにも共通点がない。あるとすれば野球部。男。同じ学校。片手で足りるほどのなんてことない事項。
それでも今は、沖に会いたいと思った。向こうが会いたくなくて避けていても、干渉されたこちらにも自由に選ぶ権利はあるはずだ。由太郎に家を聞いて今度はこっちから訪ねてやろうか、とも計画を練った。由太郎。そして次に由太郎のことを考えた。ダチの弟、というつながりでも、由太郎とは友達のように接していた。体力馬鹿で考えるより行動する方が早くて、ミーティングより100メートル走のタイムを競う方が楽しい。気性が似ていて一緒に居て楽しかった。その由太郎に、あんなに警戒されたのは初めてだった。由太郎は嘘をつけないし(ついてもバレバレ)友達をかばったりすることで自分が気持ちよくなるタイプでもない。本当に沖のことを大切に思っているのだ。沖を守ろうとしている。良い友達がいるじゃないか。
「良い友達いるじゃん。」
思わず口に出た。クラスメイトがちらっとこちらを見た。構わず窓の外を眺め続けた。少なくとも由太郎は沖を独りぼっちにしたりしないだろう。良い友達だ。なんの不満があるんだ?夢の中の沖に問いかけたかった。どうしてそんな顔してるんだ?
少し暑めの日差しは、足りない眠気をもう一度呼んだ。うとうとと微睡みながら、夢の中でもいいから沖が現れないかと願った。でも駄目なのだ。日が昇る前の、団地前でないと。














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