デイ 3


授業の終わりの陽射しは傾いて午睡に心地よく、もう部活まであと数十分だと言うのにも関わらず深く眠り込んだ。
深い眠りは夢をつれてやってきた。猫だ。ぐちゃぐちゃに汚れた猫がいる。今朝見送りしてくれた仔猫。家にやってきてまだ二週間。名前も付けていない。車のエンジンにはさまれてニャーニャー鳴いて、三時間かけて助け出した。ガリガリで右足に大きな怪我をしていて、今でも引きずって歩く、生まれた時から運の悪さを背負ってきたような猫。よく鳴くんだ、団地はペット禁止だって言うのに。困った奴だ。名前も付けないずぼらな飼い主でごめんな。猫はだんだん金色に染まっていった。体の形が変わり、捩じれながら固まっていく。金色の絵の具だ。幼稚園のころに大事にしまっておいたサクラ絵の具の「きん」。融通のきかない色。絵の具のふたがゆっくりと開いた。チューブから金の絵の具が大量に出てくる。おい勿体ないじゃないか。奇麗だろうその色は。やがて絵の具は滝のように流れ、金のカーペットになった。惜しみなく伸びている。

目を覚ますとその金の光がフラッシュのように飛び込んだ。太陽の沈みかけた空は黄金のカーペットだった。
由太郎に今日は沖は来たのかと訪ねると、また不思議な顔をしながら「来てない」と言った。もしかして、と思った。最後の部活には出るかもしれない。怠慢で体を動かすのに向いていない人間だとは思うが、練習には人一倍真面目に励むし、それについていく能力もある。野球が好きと言う才能。しかし僅かな希望も泡のように去り、すかすかの虚無感が心を煽いだ。まるで本当に失恋した気分だ。
「小饂飩君。君、最近沖君のことをよく気にかけているみたいだけど。」とトシが幾分落ち着いた声で言った。「何か用があるのかい?」
「ああ?いやあ用っちゃあ用だけど、聞きたいことがあるっつーかなんつーか。」
トシの顔はまるで朝の由太郎のように不審感に溢れていた。どうしてこうもみんな珍しがるんだろう。ただ休みの後輩を先輩が案じているだけで?
「なんだよ、その目は。いじめたりなんかしねーっつーの。なんでお前といい由太郎といい、俺をそう険悪なキャラにさせるかな。」
「険悪、だって。それちゃんと漢字で書けるかい?ああすぐ怒るのは低俗な証拠だよ。まあそうでなくてね、君と沖君が絡むのが珍しいということ。つながりが無かっただろう?絵にならないんだよね。まったく違和感だ。」
絵にならない?まったく上等だ。誰も定着剤で固めて額縁におさめて欲しいなんて言ってない。愛情をこめて無視していると、トシは構わずに言った。
「由太郎君とは別の種類で、君と沖君は対極にあると僕はそう思ったんだよ。」
そのトシの言葉はこつんと軽石を投げられたみたいに引っかかった。そのまま喋ってくれれば良かったのに、またトシは気持ちよく話したいだけ話して終わってしまった。しこりのように気持ち悪くわだかまる。
対極と言われたって向こうから来たものは仕方が無いじゃないか。オープンどころか開けっ放しな性格で賑やかなことと下ネタが好きで声がでかい俺が、沖のことをよく知らなくったって真逆なことは分かってる。それでも沖はやってきたんだ。わざわざおれの家の前まで。それを知りたかった。なんで俺に?どうして俺を?
顔を上げると校舎の後ろの山並みに溶けるように、陽はゆっくり沈んでいく途中だった。金のカーペットが山の端に敷かれて校舎を越えて雪崩のように光り零れていた。眩しくて細めた目を擦った。何だ?なにかが気持ち悪い。引っかかっている。心臓が訴えるように騒ぐ。何かに気づけと騒ぐ。何なんだ?何かに気が付いていない?もう一度目を思いっきり擦った。腫れそうな目に神経を全部集中させた。

金色に光る校舎の屋上の、逆光で黒く塗りつぶされた小さな人影。沖だ。
あれは沖だ。

「おい!?」
整備道具を投げ出した俺に、誰かがどこいくんだと呼び止める声がした。もちろん聞こえてはいたけどそれは意味の無い音だった。迷わず走った。全速力で走ると耳にごうごうと風の音が異常な大きさで入ってきた。これだ、この騒音。夢の中の柔らかな騒音はこれだ。小さな人影は動いていた。全速力で走っているのに、景色が流れるのがひどく遅い気がする。もどかしくてなんども縺れそうになった。急がなければ。動いている。屋上からいなくなる。帰る気なんだ。やっぱり学校に来たんだ。
校舎の中に残っていた僅かな生徒がすれ違うたび迷惑そうな顔で振り向いた。屋上に出る階段は一つしか無いけど、最上階にあがる階段は3つある。すれ違わないことを心から祈った。途中でどこかのクラスのバケツを蹴りとばした。鋭く大きな音がかなり後ろの方でぐわんと響いた。誇らしげに整頓された正確な階段に腹が立った。あと3つ…2つ…。最上階に出たらあと一つ。非常口と書かれたドアが屋上の階段への道。ぺらぺらで軽いドア。しかし屋上の扉は重くて分厚くて、うちの玄関によく似ていた。開けると同じ軋んだ音がした。でもここは団地じゃない。
開けた。少し違った表情の沖が居た。
夢と一緒の形になった。ただ月がなくて、夕日があって、ここが学校なだけで、俺たちは一緒だった。リアルな夢。夢ではなかったけどやっぱり本当の現実とは違う。現実の方がよけいな動きが多いように見えた。沖が目の前に居て、それが現実で、嬉しくて俺は力が半分抜けた。どうしようもなく笑ってしまう。力の抜けた笑みで言った。
「やっと会えた。」
夢の終わりに、変な顔するな、と言ったのに、沖はやっぱり変な顔をした。
「お前俺に会いにうちまで来ただろう。」
沖はますます顔を歪めた。おれはちっとも気にしなかった。とにかく息が切れて、絞り出したこの二言が精いっぱいだった。俺の息が空しく響く中で、沖は歪めた顔を今は辛そうに見せて、黙っていた口を静かに開いた。
「どうしてここがわかったんですか。」
「グラウンドから見た。グラウンド見てたろ。」
息を押し込むように無理矢理つばごと飲み込むと喉にちくちくと痛みが走った。大きく息を吐いて、吸った。そしてもう一回笑っていった。
「すぐ分かった。俺もお前を見たから。三階の教室で、お前が渡り廊下を歩いてる時。」
沖の顔がわずかに赤く染まった。
「なあどうして俺の家に来たんだ?なんか用だったんだろ?」
「いってません。だいたい、先輩の家どこにあるかも知りません。」
「俺が学校で捕まえるっていったから、学校に来てくれたんだろ?」
「ノートを取りにきただけです。」
感情の無い声だった。俺は沖の顔をしばらくじっと見ていた。やはり現実の沖は夢の中より線が細く影が薄く見えた。俺はうなだれた。ため息に似た息を吐いたら、ぴくりと肩が揺れた。ほら夢の中とおんなじ。それだけで満足だった。
「いいや、会えたから。会いたかった。」
「え?」
その「え?」の発音が沖の普段の声からわずかにずれた。首を持ち上げると、沖は目を強張らせていて、固まっていた。目の下に不自然な皺が刻まれている。よく見たら沖は普段より疲れているように見えた。擦れてすり切れた布のように張りがなく先端から柔らかく細く消えていっているような。
「会いたかった。」
もう一度言うと、今度は眉間に皺がぐちゃぐちゃと集まって、沖の顔は怒っているような驚いているような、あるいは心から悲しんでいた。伝染してくるような強い感情の流れがあった。それはとても切ない気持ちにさせた。
どうかすると抱きしめてしまいそうになる。俺は全力でそれを堪えて、もう沖も沖の夢の話からも逃がさないように、小さな沖の腕を掴んだ。ずっと触れたいと思っていた。だって夢の中の沖はふらっと消えていってしまいそうだったから。腕を掴むと沖はますます体を強張らせて、混乱しているようだった。すぐにでも離れたいという表情をしているけど、体が思うように動かない。離してくれと眼がいっていた。もちろん離さなかった。
「何が言いたいんだ?」
「…は?」
「なんでそんな訴えたそうな顔してんだよ。夢のなかでも、今も。」
沖は迷っているように体をもぞもぞと動かしていた。小さな声で「離して下さい」と言った。もちろん離さなかった。
「ユタ坊。」
沖の体がぴくりと反応した。
「ユタ坊に、沖のこと叱るつもりかって言われた。今日は居ないのかって聞いただけなのに。沖のこといじめるやつは許さないって。でもこれじゃあいじめてるみたいだな。ユタ坊に怒られんのかな、俺。」
声なく笑うと、沖が表情を変えていることに気が付いた。夢の中の沖だ。月がなくて、とうとう独りぼっちにされてしまった、置いていき堀の沖だ。心臓がまた変な脈を打ち始めるほど、俺はものすごく緊張した。
「沖?」
「…。」
「沖ちゃん。なあ、どうしてそんな顔するんだ。ユタ坊はいい友達じゃねえか。お前の為なら本当に俺を殴ったりすんぞ。ユタ坊はずっと傍にいるじゃねえか。何が恐えんだ。なんでひとりぼっちなんだ。」
俺の声は緊張のあまり固まっていた。
「沖ちゃん。」
「…僕は、由太郎が大切です。」
沖はゆっくりと口を開いた。騒音の中で浮き彫りになるくらいはっきりとした声だ。
「僕の為なら先輩にだって殴ってくれる由太郎が大切で大好きなんです。僕はたいして面白いことも言えないのに、いつも傍に居てくれて、当たり前のように喋ってくれる由太郎が大好きなんだ。僕はなにも返さないけど、由太郎が喋った言葉は全部覚えてる。ノートに刻むみたいに正確に。由太郎が居てくれたから、僕はひとりぼっちにならなかった。だけど僕は由太郎が大切すぎる。独りぼっちがもう嫌なくせに、恐いくせに、由太郎を大切に思い過ぎるんだ。由太郎が居なくなったら、もしかして僕を嫌いになったら、僕は独りぼっちよりもっと深い深い闇に沈んでしまう。そんなの恐い。だけど僕は由太郎のこと大好きなんだ。由太郎が迎えにきてくれるのが嬉しい。でも自分からは傍になかなかいけない。そのことを考えると。」
沖は呼吸を置いて、そして震えるように俯いた。ペットボトルを逆さまにして水が不定なリズムでばしゃっばしゃっと零れていくように、沖は不安定だった。そしてまた喋りはじめた。
「だんだん恐くなって口を閉じてしまうことが増えた。黙っていると楽だった。自分の言葉に由太郎が悪く思ってやしないかって不安にならないから。僕の回りに薄い殻ができはじめるのが見えた。由太郎から離れたくないから。その薄い殻ができてからは、僕はまるで自分の目じゃなく誰か別のところで僕と由太郎を見ているように感じはじめた。その目が僕の目なのか、そこに座っているのが僕なのか、もうどっちだかわからなくなって、どっちでもない気がしてきた。取り残された僕の意識だけがふわふわと漂っているんだ。どこにも行く場所がない。」
沖はゆっくり顔を上げた。置いていき堀にされた顔だった。抱きしめてやりたかった。由太郎と、その前に座っている自分の姿を、ガラスに隔たれた向こう側でじっと見ているだけで、ずっと置いていき堀にされていた沖を。
「先輩、二週間前に猫を拾ったんでしょう?」
「え?あ、おお。なんでそれを?」
「由太郎の家に来たでしょう。ドッグフードをもらいに。猫なのに。」
俺はすこしばつの悪い気持ちになった。なんでそんな話になったのか分からなくて、ろくな言い訳もできなくて、照れ笑いでやりすごそうとしたが、沖はいたって真剣だった。空気がとても緊張していた。
「人間の食べるものよりはマシかな…って。」
「あの時僕もいたんです。」
びっくりした。沖は続けて言った。
「庭で喋っていて、僕は丁度雨戸の後ろに座っていた。先輩は僕に気が付かなかったけどその方が良かった。先輩のことは今でも少し苦手です。他の人よりもっと。でも猫がって、猫の話が聞こえて、ばれないように少しだけ覗いたら、先輩がぬれねずみの猫を抱えて立っていた。」
二週間前のことを俺は思い出そうとした。エンジンに挟まった猫を三時間かけて助けて、動物病院に行って右足の怪我を治療してもらった後だ。二週間後にまた来てくれって獣医が言うので、団地内ペット禁止上等の覚悟で猫の世話をすることを決めた。治療費で手持ちの金が随分寂しいことになったので、院内に売っていたキャットフードには手が出せず、友人村中魁の家のでかい犬が居たことを思い出して何か食べるものを分けてもらおうと家に行った。お湯でふやかせば食えるだろうと軽く考えていた。そうだ思い出した。魁ちゃんの家の玄関にそのでかい犬は番犬として繋がれていたので、猫がどうにも怖がって、仕方なく庭から失礼したんだ。魁ちゃんは居なくて、縁側の部屋には由太郎が居た。そう言えば誰かと話していたような声がしたいた。あれは沖だったのか。
「猫は震えていた。震えてるのに細い足で懸命に先輩の腕にしがみついていた。この人が居ないとまた独りぼっちになる。何をされても離さないっていうふうに。先輩はその猫を大事に抱えていた。抱えて笑っていた。猫の重みとか汚れとかまったく気にしていなかった。鳴く度に撫でてやっていた。僕はそれを見ていた。僕は…優しい人かもしれないって。」
沖の腕が震えた。泣きそうに張りつめていたけど泣いてはいなかった。
「先輩のこと、優しい人かもしれないって。だったら、僕も、僕のことも拾ってもらえるんじゃないかと」声に訴えるような力が入っていた。
「雨が降っていて汚い。みすぼらしい。でもあなたなら拾ってくれるんじゃないかって、どんなにぼろぼろでも、ひっかいても、笑って…」
「…勝手に、そう思ったんです。」沖の声は消え入りそうになっていた。「羨ましく思った。」
俺は沖を抱きしめずにはいられなかった。掴んだ腕に力をこめて、体をゆっくり引くと、沖の体は堅くなったままだけど抵抗はしなかった。しなかったんじゃなくて、抵抗するのを忘れているように見えた。本当は何も言えなくなるほど強く抱きしめてしまいたかったけど、そうすることは適切じゃない気がした。エンジンから猫を取り出すように、包むように優しく、腕の中に入れるだけで辛抱強く待った。沖は猫のように震えていた。
「そう思ったら、抜け殻にされた意識の僕だけが勝手にふわふわと飛んで先輩の家の玄関までついてきてしまったんです。先輩が出てきてびっくりした。やっぱり拾ってくれるんだと思った。先輩、一度しか言えません。すみません。僕は勝手に、」
「こっちこいよ。大丈夫。」
鋭く部屋を切り込んだ朝日の中の沖の幻に言った言葉は、思い出せばエンジンに絡まって恐怖で怯える猫に言ったことと同じだった。
沖は泣いているように見えた。だけど震えるばかりで泣いてはいなかった。泣くこともやめてしまったのかもしれない。自分の気持ちを出すものを、結局は殻の中にとじこめてしまわなくちゃならないから、やめてしまったり、諦めてしまったりしたのかもしれない。
我慢できなくなって、沖の頭を寄せるように抱きしめた。猫のように、ただ可愛がるだけの存在として沖は扱われたことがきっと無いんだろうと思った。普通の人間なら気にもしないこと、むしろ鬱陶しいだけのこと、沖はとても望んでいたのだ。心が切なくて縛り上げられた気分だった。上手く呼吸ができない。沖に何かを言って、できれば今もっとも喜ぶような的確で優しい言葉を言って安心させてやりたかったのに馬鹿な頭はからっぽのままだった。白い爆発が起きたように、ぎっしり身の詰まったからっぽだ。初めての体験だった。呼吸すら上手くできない。この感情をなんというんだ。ただ腕の中の沖が大切だ。陽は頭の先を僅かに残しただけで殆ど沈みきっていた。月が無い夜が来る。沖を独りぼっちににはしないと震える猫の額を撫でた時と同じように、僅かにもとげのある感情を全部捨てて沖の頭を撫でた。沖の体は力なくぐったりと寄りかかり、意識はなかった。ただ左手が気が付かないほど僅かに、だがしっかりと服を掴んで離さなかった。まるで包帯を巻いた後の猫のように。





























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