デイ 4


闇の中に、一人立ちつくしていた。足下は確かに存在するのにほかに何もない。何も見えない。押してもそこに空気の圧すら感じられない。ただ真っ暗だ。
───ここはどこだろう?
漠然とした不安とともに、ああやっぱりな、と落ち着いてしまう気持ちがあった。納得してしまう。覚悟していたんだ。暗闇だ。そうだともいつか落ちると覚悟していた、あの暗闇だ。由太郎がいなくなって、僕はまたこんなふうに、何もない暗闇の中を慣れることもなく、歩き回ることも出来ず、ふらふらとその場を行ったり来たりするだけで僕を損ない続ける。誰かが気付かず通り過ぎてゆくように、僕は底なしに損なわれていくんだ。
足下にちらりと何かが光った。珍しい。ここに光るものなんて一切置けないのに。拾い上げるとそれは絵の具のチューブだった。銀色に輝く安いアルミに、さくら絵の具「きん」と書かれたラベルが張り付いている。小さなプラスチックの蓋が音もなく開いて、中から金の絵の具がとろりと溢れだしてきた。その色はここに不釣り合いなぐらい輝いて見えた。絵の具は異常な量でチューブから溢れてきている。密度はいったいどうなっているんだ。絵の具が固まり、ぐにゃぐにゃと形を変えて、やがて金の固まりから猫に、金が輝きを失って三毛の猫になった。猫は僕を見て一度鳴いた。知らない猫だったけど僕は嬉しくて手を伸ばそうとした。しかし猫はするりとよけて、ついてこいと言うようにひと鳴きしてさっさと歩き始めた。どこにいくの?そっちに行ったって暗いだけだよ。猫はかまわず早足で進んでいく。
君は光を知っているの?

にゃあ



目を開けると霞がかった薄暗い景色がぼんやり映った。雫がバラバラと光って零れている。雨が降っていた。ひさしから大粒の雫がぼたっと落ちた。僕はその雫をしばらくじっと見入った。何粒も何粒も零れボタボタと下に溜めていく。この場所は見覚えがある。僕は由太郎の家の縁側に、膝を立てて座っていた。由太郎と魁先輩の部屋の前の縁側。目の前の広い庭に先輩と猫が立っていたあの時とおんなじ雨。手入れの行き届いた庭は大きな水たまりをいくつも作っていて、庭木も監督自慢の盆栽も一切の活動を止めているようにみえた。ただ雨に打たれることに集中している。足の甲に何か冷たいものが触れた。見ると猫が舐めていた。三毛の猫だった。猫は僕と目が合うと、長く細い声で一回鳴いた。
「沖ちゃん。」
どこからか声が大きくもなく小さくもなく、空気に混ざるように僕を呼んだ。僕は膝に埋めた顔を少しだけ傾けた。近くもなく遠くもない距離の隣に小饂飩先輩は微笑んであぐらをかいていた。
「おまえがここを選んだんだぜ。」
猫は先輩の声に反応してすぐに先輩の元へすり寄っていった。喉を鳴らして、褒めてというように甘えていた。先輩は額をこすりつける猫を自然な動作で抱きかかえ、無骨な指で信じられないくらい優しく撫でた。猫はとても喜んで安らいだ顔をしていた。でも僕はその姿を、とても優しく猫を撫でる先輩を、まるで予知夢を見た後のように理解していた。優しい人かもしれないと思った時にこんなふうに何の見返りもなく優しい顔で甘やかしてくれることをぼくはいつかの未来として想像していた。だから僕は甘えたかったのだから。
「沖、おまえはよっぽどここからやり直したかったんだなあ。」
先輩は猫を見つめながら言った。僕は黙っていた。先輩の声が雨に溶けて雨の音は空気に溶けて全てはとても自然で、ここで目立つものは一切なかった。魁先輩も由太郎も居ない。ほかの人間の気配がない。世界が優しくまろやかに溶けて、なにものも僕を傷つけなかった。
「助けてっていえばよかったんだ。俺はお前をはねのけたりなんかしなかったよ。」
そうかもしれない。僕はまた黙っていた。膝に埋めた目をゆっくりと瞬かせただけだった。
「でも。」
猫が名残惜しげに鳴いた。猫を撫でていた先輩の指が僕の頬に優しく触れた。
「気付いてあげられなくてごめんな。」
腕を伸ばしてかろうじて僕に届く距離にあった。なので指先が僕の頬を擽るだけだった。短く切られた爪も温かくて丸っこい指の先も僕を傷つけず滑るように触れただけでそれだけでこの世界で僕が確率されていく。触れたところから僕が固まる。体温が戻る。乾いた目に水質が溜まった。なんて不思議なことだろう。ただこれだけの声で僕は声が出せるようになった。
「どうして、先輩が謝るんです。」
先輩は腕を引っ込めて、気持ちよさそうに笑った。
「なんだろうな。人類代表としてってことかな。沖に気がつかなかったみんなに代わって、俺が謝る、かな?」
「おおげさ…。」
「俺は考えんのは苦手なんだ。」
そう言ってまたカラカラと笑った。
「なあ沖はどうしたい。気付いた俺は気付かなかった人類に代わってお前に謝罪すんだ。欲しいものをやる。俺の誠の旗に誓って。」
僕は驚いた。先輩の声はちっとも変わらず優しいのに、僕の心を容赦なく掴み揺さぶった。なんでそんなこと言うのかわからない。僕と先輩とはたった3日前までろくな会話もしたことが無かった。僕はなんでそんなこというのかわからないと言った。先輩の微笑みは変わらなかった。
「お前がどうしたいかが俺には大切なんだよ。」
先輩の膝で猫が心地よさそうに微睡んでいた。時折目をつむって先輩の腹に潜り込もうとしていた。
「そんな」
「お前は傷つく辛さを知っているんだな。」
僕の心臓が強く震えた。
「友達を大事にするやり方なんて人それぞれなんだよ。お前は結果自分を苦しめたかもしれないけど、たった一人の親友だからってそこまでダチを大切に思える奴はそう居ねえよ。 お前が由太郎を傷つけたら嫌われてしまうと思ったのは、傷つくのがどんなに辛いか知っていたからなんだろ。」
先輩の声は早くもなく遅くもなくずっと自然なままで、そして諭すような優しさを含んでいた。それでもその声が僕の昔の嫌な、一番嫌な記憶を撫でるように触れていく。まだ忘れていない本当は殺してしまいたい記憶が僕をいつでも見えない暴力で傷つけていた。なにより辛かったのは、その記憶の中でぼくはひとりだった。僕の声が乱暴に消されていた教室がいつまでも僕を閉じこめる。僕は震えた。だけど先輩がそれを見ているのに気がついた。僕のふるえが落ち着くまでじっと優しい顔で見守っている。少し息を吐いて呼吸を整える努力をする。「そんなに辛いんだもんな。」と先輩が言った。僕はなんとか落ち着きを取り戻した。
「嫌われたくないって強く思う気持ちの中に、由太郎にそんな思いをさせたくないっていう思いも確かにあったと思うよ。お前のことよく知らねえけどそうでなきゃそんなになるまで守ろうと思えねえ。お前はえらいよ。嫌われたくなくて、辛くさせたくなくて随分我慢したな。言葉も選んで、ユタの言葉一個一個大事にしまって、自分を友達にした由太郎が少しも負担に思わねえように、お前なりにこんなに頑張ってきたなんて俺知らなかったよ。沖の声が聞こえなくてごめんな。何度玄関の前に立ちつくしてたんだ?待っても待っても誰も開けなかった扉の前に。お前は純粋だよ。お前のやり方俺は間違ってなんかいなかったと思う。すくなくとも俺は好きだよ。」
先輩はもう一度僕に手を伸ばし、今度は掌で頬を撫でていった。温もりを取り戻した僕はそれでも先輩の手を温かいと思った。触れることでさっきの言葉が全部染みこんでくるようだ。心に入ってくるこの感覚がまったく初めてで僕はどうしたらいいのかまいってしまった。先輩は、だから俺が無条件に手を貸す理由だ。と言った。ずっと同じ微笑みだった。
「俺はお前のことが大好きだよ。」
僕は本当に混乱してしまって何を言うべきなのか全然頭が回らなかった。それでもその言葉が頭でなんども響いた。大好きだよ。それは今までに聞いたことのない音の響きをした。由太郎がじゃれて僕に大好きと言ってくれたことがあるのに、それとはまったく違う。僕を許されて始めて言って貰う言葉。
───受け入れてもらってるってこと?
先輩は僕に触れていた手をそっと離して、そして僕の前に差し出した。手を取れという風に。大きな手だった。猫を抱きかかえていたときと同じ手。その手が欲しいと思った。心の底から欲しいと思った。執着の強い自分は無意識に玄関まで行ってしまったほどに。
───もしかして手に入る?
手に入る時が本当に来るなんて思っても見なかったからとても信じ切れない。だからこの手を手に入れた後の自分なんて考えたこともない。優しくして貰いたかった。何を言ったって許されたかった。僕の心を聞いて欲しかった。お前は間違ってなんかいないってそう言って貰いたかった。だからもう十分なんだ。この手を取ってしまえばこれから先、情けない欲深な僕を先輩が嫌にならない保証なんて無い。
「こっちこいよ。大丈夫。」
なのに欲張りな自分はこれからもこの手が欲しいと強く思った。




頬に冷たい何かが当たる。猫が必死になって俺の頬を舐めていた。猫は青い目をぐりぐりと光らせ、一足先に帰って俺を起こしてやったんだと言っていた。猫はまだしっかり覚醒しない俺に額をこすりつけ起床を促した。もしくはエサを強請っているのかもしれない。ベッドを見ると沖はまだ眠っていた。俺は片手で猫の額を撫でた。
「そうだよな、先に起きて待っててやらにゃあ。」
猫は細く長く鳴いた。
屋上で昏倒した沖を俺はどうすればいいのかわからなくて、だけどこのまま無責任に放り出したくはなくて自宅の団地へ連れ帰った。いろんな奴に訝しまれながら沖の自宅を調べて連絡を入れ、沖は自分の安物のベッドに寝かせた。熱もなく脈も正常でただ沖は深く眠っているだけだった。だけど俺は確信していた。こいつはどこかへ飛んでいったんだろうと。この団地以外の場所へ。どこかで膝を抱えてうずくまっている沖を想像して迎えにいかなければと思ったので、ほとんどなにも考えないで沖の側で眠ることで沖の元へ飛んでいった。飛んでいけると思った。余計なチカラを抜けばゴムで引っ張られるように。
「沖。」
名前を呼ぶと瞼が反応したように見えたがまだ目を覚ましはしなかった。握られた手の温かさと小さな寝息がとても嬉しい。俺は珍しいほど穏やかな幸せを感じた。眠る沖の顔が安らいでいるように見えるのが嬉しい。沖が俺の手を取ってくれたのが嬉しい。目を閉じると沖の小さな脈が感じられた。
───実際上手くいく保証なんてどこにもなかった。
沖は俺を嫌いになって俺を呼んでくれなかったかもしれない。村中家の縁側を諦めて素通りしてしまっていたかもしれない。なにもない闇の中でまた一人で息を潜め優しい誰かが沖に気付くそのときをじっと待っている。そんな奇跡二度あって堪るか。俺が沖の唯一で、俺だからおこした奇跡だと思いたい。
何でそう思うのかはわからなかったし、考えようともしなった。夕べ起きた白い爆発もまったく正体がまったくわからない。だけどそれは俺をこれ以上ないくらい切なくさせる感情だった。例えるなら傷ついた猫が一生懸命針山の一本にしがみついて生きようとしているような姿を見たときに、その小さな体で出した全力の力に感動するような衝撃だ。感激があったのだ。これを沖に言ったらいい顔はしないんだろうけど、むしろそのものなのだ。
俺は頭が悪いし、考えることは元もと苦手だ。ただ沖がこんなに可愛いんだから俺は沖を連れて帰ってうんと大事にしてやろうと思った。それはあの三毛の猫に思ったこととおんなじで、突き動かしているのは別の感情だった。俺の愛情表現っていうのはそれしかないんだ。馬鹿だもの。

猫が鳴いた。
「お。」
沖が目を覚ました。薄く開けた瞼から覗く瞳はまだ薄暗かったけどとてもキレイでこの世の汚れを知らないように見えた。俺はおはよう、と言った。手は繋いだまま。俺の脇で丸くなっていた猫が立ち上がり沖にすり寄ってまた鳴いた。沖はその声でやっと起きたようで、ゆっくりと開いた方の手を伸ばして猫を撫でた。猫も沖を覗き込み、頬を舐めた。
「君が…。」
「ん?」
沖は繋いだ手に気がついて、照れたような苦いようななんとも言えない顔をした。だけど振り払うことはなかった。猫が沖の頭の隣で寝ころび、大きなあくびをして大きな目で何度も瞬きした。猫が眠たいときにする仕草で、やがて微睡み始めた。沖が小さな声で言った。
「この子が連れてきてくれた…」
「え?猫が?」
沖は小さく頷いた。
「まだ諦めなくっていいって。」
暗闇から縁側に。沖はそう呟いた。一度は諦めて閉じこもろうとした暗闇に猫が現れた。猫は大丈夫だと言って金色の矢印のように道を指した。沖をあの雨の日の縁側に連れて行ったのは俺がエンジンから助け出した名無しの猫だったのだ。
俺は猫を見た。猫は寝不足を訴えるように体を自由に放り出して眠りに入っていた。恩返しのつもりだったのだろうか。いや腕のいい医者を紹介するような感覚だったのかもしれない。俺はまいったなあと言った。沖は俺を信じて待っていてくれた訳じゃなかったのだ。
「俺を信じて待っててくれたわけじゃないわけね。」
沖はえ?と言って少し考えてから照れたように表情を曇らせた。
「違う…自分の問題です。」
俺はその反応が嬉しかった。猫に触れると猫のしっぽがぱたんと反応した。それを撫でながら言った。
「由太郎のことだけどな。」
俺は沖が微塵にも怖がらないようになるべく優しい顔をつくった。しかし沖には由太郎の名前は特別なのだ。
「由太郎はお前のことを理由抜きで好きだからよ、お前が何言ったってあいつがお前を嫌いになるわけないんだよ。」
沖は黙っていたがしばらくして頷いた。わかってる、と言いたげだった。沖の頬に赤みが差して謝るタイミングを逃した拗ねた子供みたいな表情をしていた。俺はそれがおかしくて吹き出してしまった。沖に気付かれて睨まれた。猫は完全に寝入っていて、それを撫でていた手で沖の頭を軽く2回撫でた。
「知ってたらいいよ。」
知っているなら沖はなんとかするだろうと思った。由太郎をひたすら大事に思うその一途な心で少しずつ由太郎への接し方を変えてゆけるだろう。由太郎のあの思うがままの優しい心は変化無く沖を受け入れる。なにも問題はないと思った。俺がしてやれることなんてこのきっかけの間に過ぎない。せき止める岩を動かして取り除いてやるように、後は自然な流れの意志に赴くままのことなのだ。沖が口を開いた。
「そう言ってくれる人を探していたのかもしれない。」
「え?」
「この猫が僕を迎えに来てくれたとき、猫は誰かにいわれたことが嬉しいんだと思った。諦めなくっていいよって。先輩が猫を助ける前に猫はもう諦めていたのかもしれない。でも最後に一度だけ、通りすぎた足音に賭けて鳴いたんだと思う。優しく伸ばしてくれた手が、諦めなくっていいよって言っていて、それが死にそうなほど嬉しかった。だって認められたら嬉しいもの。」
沖の声が所々掠れて、大きくて奇麗な目には頑として流れない涙がたまっていた。
「今まで暗くて硬いエンジンの中で踏ん張って生きて、死んでしまうくらい消耗したときに迎え入れてくれる手が伸ばされたら、今までにしがみついてきた自分の生が認められたと思うもの。」
そしてもう一度小さな声で「認められたら嬉しい」と言った。沖は危うげに片手で涙を拭った。それから一度小さく息を吐いて吸った。
「頑張ったって、間違ってなんかないって言ってくれて、ありがとうございました。」
俺はどうしようもなく感動してしまって、先に涙してしまった。まったくかっちょわりいや。でもあんまりにも沖ががんばって言うから。
俺がずっと鼻をすすると、沖がとても可愛い顔で笑った。
「頑張ってよかったあ…。」
そして沖の目に溜まっていた涙がぽろりとこぼれた。
俺はな本当にほんっとうにたいしたことしちゃいねえんだよ。これっくらいのこと誰だって言えるし俺は沖みたいに体張ってなんかしたわけじゃないんだよ。これからとっても良い方向に事態は赴いていくだろう。それは約束する。だけどなそれだってお前が築き上げたものなんだよ。俺がしたことはお前の何分の一にもなりゃしねえんだよ。全部、全部、全っ部が、お前がやってきたすごいことなんだよ。
俺はそう伝えたかったのに男泣きが止まらなくてろくな声がでなかった。震える唇を噛んで無理矢理つなぎ合わせた言葉が喉の奥から不細工な声で出た。
「お、俺は…お前に、会えて、良がったなあ…。」
沖は笑うどころかもっと泣いてしまって、それから二人してしばらく男泣きしてしまった。俺は今日ほど泣いたことはない。こんな男らしい涙も。
───大事にするよ。ただ一つを守りたくて自分なりの正義で戦っていたお前が本当に好きだよ。これから先俺の手を必要とすることなんてきっとほとんど無いんだろうけど、それでも俺はお前が震える足で由太郎の隣に行き、由太郎と一緒に他のどこかへ行ってしまうその日までお前のことを本当に本当に大事にするよ。お前が自分の足で歩こうとしない弱くて自立心のない男だったらもっと側にいられたのに。でもそれなら俺はこんなにお前を甘やかそうとはしないんだろうな。そんな奇麗なお前が俺に会えたことで頑張ってよかったなんて言ってくれて本当にありがとう。こころから
 外はもう夜が明けてあの青の世界とぽっつり浮かんだ月がでていたけど、今度は月が独りぼっちになった。あの最初の日から、この青の世界には二人きりだったんだよな。俺は沖の額にキスをした。二人きり、この日の照る世界で二人は涙を流しながら、それでも決めたなら歩きださなきゃならない。
まるで最初の日のような一日が始まろうとしていた。















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