夜明け前 04





非常用シャッターと非常扉で閉じこめられた狭い階段は、暗くて乾いて、そしてどこからも切り離されていた。扉の外はただの闇で、この空間だけが息づくものが存在し、酸素があり、僅かな光が有るように感じた。実際、その部屋には誰も入って来なかったし、それどころかその前すら通り過ぎる気配は無かった。その切り離された世界で、由太郎は必至に呼吸した。喘ぎながら、酸素を求め、乾燥した口内を満たすため屑桐の唾液を奪った。天気の非常に変わりやすい季節で、一日に何度も断続的な雨が降り注いだ。今も雨が窓を揺らすほど強く降り注ぎ、うすぐらくて狭い階段の踊り場に浮かび上がった肌を、それが全てだというふうに、お互いがお互いの肌を何度も撫でた。由太郎は爪を立て傷つけもした。どれだけ傷つけてもいいと知って、由太郎は何かの印のように屑桐を傷つけた。歯を立てると屑桐が小さく呻いた。仕返しとばかりに強く突き上げると由太郎が大きく喘いだ。由太郎への傷は、由太郎の見えないところに刻まれていった。
「もっと強く吸って」
由太郎の乳首を噛むより強く吸い上げると、一際大きな声が響いた。屑桐は由太郎の要求を全部叶えた。骨が軋みそうな体位での挿入を要求されても従った。
「ねえ、…挿れないでっていったら、やっぱり挿れなかった?」
「…それは無理だな。」
由太郎はそう、と言って屑桐の額にキスをした。取ってしまいたかったが、後のことが面倒なので、サラシの上から唇で触れた。
外がいったい何時なのか、皆目見当もつかなかった。まだセックスを初めてほんの20分間しか経っていない気もするし、実は今は朝で、一夜を越えて一晩中こうしていた気もする。どちらももう何度射精したかわからないし、由太郎の体内は屑桐の精液がたっぷり注ぎ込まれ、それはだらしなく溢れ床と体を汚した。全部体内に出せと由太郎が言ったのだ。一度と見逃さず、そしてどんな小さな射精すらもう出し尽くしたというところまで体内に挿れっぱなしにした。非常に疑い深くそれを吸い取った。腹を壊すと屑桐が言えば、そんな心配頼んでないと睨んだ。窓が一度大きく軋んだ。その音と被さるようにして、由太郎が大きく喘いで意識を手放したのはもう夜も深かった。



「熱帯魚を殺したんだ。」
と由太郎はぽつりと言った。屑桐の方を向かずに、ただ天井に向かって独り言を言うように始めた。声は狭い部屋に染みこむように、投げ出され屑桐と由太郎の上に質量を持って降った。唇はほとんど動いていなかったけれども、何もない狭い部屋では音の標準が失われて屑桐にはその声が大きいのか小さいのかよくわからなかった。
「ヒーターのスイッチを入れ忘れて。おふくろがそれを一番始めに見つけた。たまたま俺より早く帰った兄ちゃんが、その熱帯魚を救い出して、庭の隅に埋めて、そして俺の水槽に兄ちゃんの熱帯魚を入れた。気付いた後でおふくろが教えてくれたんだ。」
由太郎はゆっくり息を吐いた。
「何故気付いた。」
「そろいで買った魚だったけど、兄ちゃんのは尾ひれのはじっこに墨みたいな斑点がついてたんだ。水墨画みたいでキレイだからってにいちゃんがそっちをとったんだけど、今思うと汚れているから自分が取ったのかもしれない。とにかく」
俺の魚だと思っていた魚には、尾ひれに斑点がついていたと言った。
「三ヶ月も俺の魚だと、信じて育てた。」
そして由太郎は、小さく口に含むように呟いた。
「こんな話ってあるかよ。俺は…憎くて。そのときから兄ちゃんがすごく怖くなった。」
だけど、と言った。
「俺が兄ちゃんに、兄弟以上の感情を抱いていると気付いたのもその時だったんだ。」
屑桐が由太郎の方を向くと、由太郎は微笑んで屑桐を見ていた。自虐的な微笑みで皮肉だろうと言った。
誰かを憎むことと愛おしく思うことは何にも仕切られていない一つの感情なのだ。憎いと思えば視点が変わる。その視点は愛することと同じ高さにある。屑桐はつい昨日それを知った。対極の気持ちを分けることなんて誰にも出来ないことも。そのことを知っている人間が世界に半分いたとして、人の何倍もそれで苦しむ男が、何故気付いてしまったんだろう。───いや、苦しむから気付くのか。
由太郎がため息をつく音がやけに大きく響いた。
「それからは、何度そういうことが繰り返されたかわからない。一度気付いてしまうともう知らずにいることはできない。兄ちゃんが好きだからなおさら。兄ちゃんの熱帯魚は結局三ヶ月後に死んじゃって、墓を掘ってる時にそれに気がついた。俺ものっすごく怒って兄ちゃんに問いつめた。なんでこんなことするんだって。大体熱帯魚は兄ちゃんが好きで、俺は兄ちゃんの真似がしたくてお揃いで買ってもらっただけなんだ。したら兄ちゃんは…由太郎にそんな思いさせたくなかったって言ったんだ。」
話す声が、段々と苛立ちを込めたものになっていった。幾分低い声で、由太郎は信じられるか?と尋ねた。屑桐はずっと由太郎を見たままだった。
「屑桐さん、さっきあんたの言ったことは、これと同じことだよ。もうこれ以上俺に偽物の魚になんてすり替えたりしないで。俺はその偽物の魚を見て喜んでりゃいいのかよ…馬鹿みたいに。俺が殺したなら殺したと、ちゃんと言って死骸を見せてくれよ。」
これ以上苦しませないでくれと、全身で叫んでいた。さっき由太郎は後悔して欲しいと言った。屑桐は由太郎に告白したことを全部覚えていた。自分はそう、好きなだけ文句を言えと言った。そして由太郎を撲つことは出来ないとも。その言葉が、どれだけの重みになって由太郎を刺しただろう。屑桐は確かに後悔した。
 だが屑桐にも譲れないものがあった。どれだけ後悔しても由太郎を殴ることは出来ないし、なにより由太郎を守ろうとする気持ちが自分の中では嘘偽りのない感情なのだ。屑桐は迷った。しかし自分たちは、純粋な感情のぶつかりあいの中できちんと対面している。
「屑桐さん、今まで俺にしたこと、少しでも後悔してくれた?」
屑桐は頷いた。
「ああ。」
由太郎はそれを聞いて少し力を抜いたようだった。まだ喜びに近いような目の光を見て、屑桐は最初に由太郎が部屋に来た日のことを思い出した。サラシを解いて、うっとりとした目で見ていた。そうだったと屑桐は思った。家族の目から頭皮の火傷を隠すためのサラシと、兄の熱帯魚。同じものなのだと気付かされる。由太郎が一番最初に兄に似ていると言った共通の部分。由太郎が剥がしたがっていた、由太郎が憎む原因となった処なのだ。
「…屑桐さんといると、嫌な自分ばっかり出てくるよ。困らせたくってしかたない。これって兄ちゃんの代わりにしてるってことなのかなあ。」
屑桐は目を細めた。何か言おうかと思ったが、頭の中にある一番短い答えを出した。
「構わん。」
そう言ってサラシをトントンとこづいた。
「その権利がお前にはある。」
由太郎は何の表情もない目で屑桐を見てしばらく黙った。そして同じ表情のままゆっくり口を開く。
「屑桐さん、妹も居るんでしょ。似てる?」
「妹と判るくらいには似ていると思うが、お前には会わせん。」
由太郎はふっと笑った。
「残念だなあ。屑桐さんの妹なら、俺本気で好きになったかもしんないのに。」
由太郎は思わせぶりにそう呟いて、なにか続けたそうに口を小さく動かしたが、屑桐がいくら待ってもその続きは何もでなかった。
「抱いてくれてありがとう。」
おやすみ、と言って背を向けた。なにもかも終わらせたおやすみだった。



屑桐はその夜部屋の外に動く気配で目が覚めた。気配はずっと部屋の前を行き来している。隣で深い寝息をたてている由太郎の裸の肩に布団を被せ、散らかした衣類からTシャツとズボンを捜しそっと布団から抜き出た。気配の正体は解っていた。屑桐が下を履くと気配は部屋の出入口の襖をずれて留まった。すらりと引くと、磨き込まれて暗く光る廊下に深い色の影が長く映っていた。部屋を出ると困惑な表情をした魁が立っていた。驚きというよりは、何と言ったらいいのか解らないといった表情だ。屑桐はその鋭い目で睨むように一瞥した。後ろ手でそっと襖を閉めた。廊下に備え付けられたささやかな光を点す小さな笠の豆電灯が、その輪郭と眉間に寄せられた影を意味深に浮かび上がらせていた。屑桐は、その青い光に見覚えがあった。一番最初に由太郎と体を重ねるために連れ込んだ部屋に、捨て置かれていたあの埃の積もった青いグラスのスタンド。その光とよく似ていた。もしかしたら同じなのかもしれない。屑桐はその青い光に浮かんだ眉間の皺を睨んだまま、
「心配なら持って帰ればどうだ」
と顎をしゃくってみせた 。魁は眉間の皺をさらに深く刻ませ、黙っていた。屑桐はふんと鼻を鳴らした。
「喋らんのか、喋れんのか…どちらにせよ、今自分が顔を出すのは不味いとでも思っているんだろう。」
部屋の襖がしっかりと閉められていることを確認するように、屑桐が一度ちらりと見やると魁も遅れて同じ視線を手繰った。数十分前まで精液にまみれ泣きそうな顔で肌を擦り合わせていた男がこの襖の向こうで、一番に会いたいと思う男が迎えに来ていることも知らずに眠っている。初めて体を結んだ男と一緒に。もしこの場を見たなら、どんな顔をするだろうか。申し訳なさそうな顔で、怯えた顔で自分を見上げ、兄の隣の布団で寝るべく急ぎ足で去っていくだろうか。わざとらしい走り方で。そう思って屑桐は訂正した。──そんな殊勝な男ではなかったな。
「由太郎があんたを憎いといった気持ちに察しがつく。」
ほんの少しの苛立ちを込めて魁に言った。魁の方はまだその顰めた表情のままで黙っている。喋ろうとしないのではなく、元から声をすっぽり抜き取られたかもしくは既習言語の忘却で伝える手段を無くしてしまっているように見えた。屑桐はため息をついた。
「持って帰らないのなら俺は寝る。俺から渡すことはしない。」
屑桐は顎で襖の先を指した。
「悪いがあれを気に入っている。」
小さな豆電灯では表情の詳細まではよく見えなくとも、浴衣に落ちた影は細かく肌の動きに合わせて形を変えた。その影で魁がみじろきしたことがわかった。屑桐は黙っていたがやがて初めて魁が喋った。
「何故由太郎なんだ。」
屑桐は眉を上げて喋った。
「さあな。誰かさんと似ているからという理不尽な理由で、本気で殴りかかられたからかな。」
魁は驚いて屑桐に何か尋ねようと口を開いたが、屑桐はそれを無視した。
「かと思ったら、次に自分の唇を噛んで血を流した。全くとんでもない男だ。」
何故由太郎なんだ。か。屑桐は口の端を歪めて反芻した。こいつは立派なエゴを持っている。それを弟に聞かせてやればいい。由太郎が拾った棘ならば、徹底的に飲み込もうとするが、案外他の輩には了見の狭いこと。現に今壊れかけている。ヤツの理性の輪ゴムが。たったこれしきの他人の干渉でだ。ただし由太郎への手塩は徹底している。普通の弟だったらこうはいくまい。ヤツもまた、皮肉にも由太郎とは対極でもある感情で兄弟に特別な感情を抱いている。そしてそれは、やはりそうだったのだ。
「お前のあれに対する気持ち、わからんでもない。」
魁は俯いていた顔を上げた。始めてみせる強い表情を一瞬だけ見せた。お前になにがわかる。そう言っていた。
屑桐は頷くように重い瞬きをした。そして冷静に言った。
「わからないでもないんだ。」











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