夜明け前 05





「今なんて言ったの?」
薄暗い明け方の部屋で、身を起こした由太郎がこちらを見ようともせず着替えている屑桐に尋ねた。手早い作業でズボンのホックを止め、Tシャツを被る。容赦なく無駄がなかったので、そのまま出て行ってしまう気なのかと由太郎は思った。
「もう、お前とは寝ない。」
奇麗な背中の筋肉が服を着るために奇妙な形に動いていた。由太郎は何から聞いたらいいのか、珍しく戸惑っていた。由太郎の胸にも脇にも、吸い付くなんて生やさしいもんじゃない屑桐の噛みついた跡が生々しく残っている。時折それがシーツに擦れて顔を顰めた。
「ちょっと待って、昨日と言ってること違うじゃん。」
「そうだな。」
「優しくしてくれんじゃなかったのかよ。」
「事情が変わった。」
少しよれたTシャツの皺を簡単に伸ばして整え、全ての身支度を終えた屑桐はもう一度点検するように綿ズボンの折り目を叩きTシャツを伸ばし、サラシが緩んでいないか調べた。そうしてようやく由太郎を見た。由太郎は起きたままの姿でいた。
「昨夜で最後だ。」
由太郎は呆然としたままだった。
「お前は言っただろう。自分のためにならない。掛け違えたならやり直しさせると。そうだ、やはりお前と正しい道を渡ることに決めたんだ。結果的にも、今も、一番正しくてまっとうな解決の道を進む。お前は傷つくかもしれない。下手をすればお前を損なうこともあるかもしらん。それでも、それが一番で唯一の解決なんだ。それが結局は一番お前が傷つくことの少ない道なんだ。」
外は姿の見えない太陽がじっくりと空を暖めはじめ山の端から白んでいた。窓の外では鳥の声が小さく響き初めて、二人以外に動く何かが活動し始めたことを告げていた。この青白い部屋も限りなく音の小さな世界も、ほんのわずかな時間、二人にとってものすごく特別な空間だった。二人の間にどんな情景があったって空気が澄み、声がよく通るこの瞬間にはうそがつけない。まるで何度もこの時間を共有してきたかのように、親密で無垢。だから屑桐が言った。
「俺がお前を思う気持ちだと思ってくれ。」
由太郎は黙っていた。殴り飛ばしてやろうかと思ったけどまた黙って俺に殴られるだけなんだろうなと思うとそれもやりたくなくなった。昨夜彼の中で何が起こったのか知らないが、一人で勝手に考えて勝手に決めて、そりゃあ俺が一方的に押しつけた感情だけどでも約束してくれたことをこんなあっさり覆すなんて。
屑桐の選択が正しいことはわかっていたし、そうしてくれと昨日言ったのは誰でもない自分なのだが、突然離された体が底のない井戸に落下していくように、いいようのない失意に突き落とされた。それはどうしようもなく寂しくて不安で耐え難い恐怖だった。
「俺にどうしろっていうの。」
由太郎は呆然として自分の拳を見ていた。強い力で押しつけるように耐えてはいたが、震える体を屑桐はしっかりと見た。次の言葉を言うのが辛かった。だから屑桐は見ないように目を閉じていった。
「それはお前が知ってるだろう。」
二人の間にあった剣呑な空気に、一瞬諦めに似た気配が漂った。由太郎は、決して観念してくれたわけじゃないだろう。いつかはそうしなけばいけないことを知ってはいても、こんなかたちで突然突きつけられて素直に納得できるはずがない。苛立ちがくすぶって血がたぎるほど葛藤しているに違いない。どうであってもいい、と屑桐は思っていた。すぐにでも動くべきなのだ。魁にかけた揺さぶりで奴を守る殻に起こした摩擦は、今でなければ意味を成さない。今でなければパキリと割れてくれやしないだろう。この合宿が終わる頃にはとっくに修復されている。下手をすればもう一生割れることのないくらい強く。そうするわけにはいかなかった。そうすれば屑桐は由太郎を一生手に入れることはできないし、由太郎は兄を一生知ることは出来ない。
 由太郎はじっと黙って、そして小さく頷いた。
「こんなに早く処決しなくちゃいけないときが来るなんて思わなかったけど、そうだな、いつかはしなくちゃ。」
由太郎は布団からゆっくり出て、何も身につけていない姿のまま屑桐を見た。
「屑桐さん、巻き込んでごめんね。」
屑桐は何か言いたかったが、黙って首を横に振っただけだった。屑桐が集めておいた昨日の服を由太郎が手にとって、手早く身につけ始めると、屑桐は部屋を出て行こうとした。
「ねえ、待って。」
襖に手をかけた屑桐を呼び止めて由太郎が言った。
「もう一回だけキスしたい。」
由太郎はすこし寂しそうに微笑んでいた。離愁を感じていてくれているのか、その顔にも言葉にも屑桐の心は激しく揺さぶられた。雰囲気は甘く悲しく、ここに来て唯一の恋人のような瞬間とも言える。ただそれはやはり本物ではなかった。
「俺もだ。」
そう言って屑桐は部屋を出た。



───今になってわかったことがある。俺は結局いつも誰かにすがって立っていたんだ。
空は澄み切った青に変わり太陽が強く照りだしてくる時間まで由太郎はその部屋に居た。誰かが起き出し、喋る声や支度する足音が徐々に大きく鳴り始めた。笑い声が増えるほどより孤独を感じられるその中で由太郎は落ち着くことが出来た。時計を見れば朝食の時間で、その終わりにそっとまぎれてみんなと一緒に練習場に出ようと考えていた。食事を取れば誰かが話しかけてくる。一人で食べれば目立ってしまう。整列の時に紛れ込んでしまえば、そのまま自然に練習に参加できると思った。日は昇っていたが窓の半分を積み上げた布団で隠してしまっている部屋は薄暗かった。
 屑桐さんに突き放されたとき、自分で奈落の底に落ちていくのがわかった。それはずっと俺が怯えていた恐怖の固まりだった。足下にそれが口を大きく開けて、俺は抵抗もできないまま飲まれる思いをした。為すすべもなく飲み込まれていく。俺はいつもそれが怖くて、兄ちゃんにしがみついていたんだ。落ちないように、兄ちゃんの足にからみついて引きずって、手を貸してくれそうな屑桐さんをみつけるとそっちの足も取った。知らなかった、一人になったら、自分が急に無価値の人形になった気がした。…俺は本当に一人になったことがないんだ。
「俺は本当に一人になったことがないんだ。」
何故なら兄ちゃんは知っていてもふりほどいたりなんて絶対しなかったから。俺の思いと体でどれだけ重たくなっても、絶対に離れないでいてくれた。
「でもそれは、俺が腹を立てていること…。」
不満言いたいだけ言って甘えてたなんて最低だ。
 由太郎の脳裏に屑桐の顔が過ぎった。一目見たときから、兄に似ていると思った。自分を突き放さないことを知っていたのかもしれない。由太郎は突然全身に毛羽だった泥を被った気分になった。気持ち悪さが押し寄せてくる。それ以上は何も考えたくなかった。本能で避けていた、自分に都合の悪い全部が容赦なく前に立ちはだかる。
 ダメだ、解決しなくちゃいけないって言ったのに、見るのが怖い。突き落とされる、食べられる。今度こそ、誰も何もいなくなる。俺は責められることを望んでいたのに、兄ちゃんの口から本当が欲しかったのに、詰め寄られると目も開けられない。
 由太郎の全身が夏の陽気に蒸した部屋でかたかたと震えた。
どんな情けなくたっていい
怖い突然ひとりにされるのは




時刻はまだまだ午前中なのに、太陽は強く気温はあっというまにあがっていった。それでも風はまだすこし涼しくて爽やかに肌を撫で、葉を扇ぎ、濃い色の影が屑桐の上で揺れていた。目を細めると枝で隠れたり現れたりする日の光が好き勝手な方向に伸びて、瞼の裏を優しく焼いた。全身に濃い影を浴び、プラタナスの葉のこすれ合う音を聞き、姿の見えない蝉を耳の後ろで一つ二つ力を抜いた鳴き声を聞くと、しばらく自分の周りにあった様々な、本当にさまざまな喧噪をほんの少し忘れることが出来た。およそこの二日、予想もしなかった非日常なできごとが屑桐の周りに起こった。だがそれはもうまぎれもない現実であって、すべて事後であって、完全に通り過ぎてしまったことはもう定まっていた。もうそれらをなくすことは時間を戻さない限りできない事物なのだった。屑桐は、そもそも自分がそれに関係している理由を探すことや、それらに疑問を持つことや悔やむことをやめた。
───今は打開するべきだ。
食堂に由太郎の姿はなかった。屑桐は早朝に大部屋に戻り一時間ほど自分の布団の上で横になったが眠りはしなかった。耳が無意識に鋭利に働いて、廊下から由太郎が戻ってくる足音はしないかずっとそばだてていた。結局朝食にも現れなかった由太郎を数人のチームメイトは訝しんでいたが、魁がそっとそれを自然なかたちで治めた。魁はとても疲れているように見えた。日々の厳しい練習にしごかれて肉体の疲れを見せるチームメイトの中で、精神をギリギリと絞られて衰弱していくまるで病人のような疲労を浮かべていた。魁は屑桐と目を合わさないように気をつけていたようだったが、しかし屑桐が席を立ち上がる一瞬だけかち合ってしまった。魁は迷うことなく無表情に視線を離した。引きちぎるように乱暴に。ほらみろ、と屑桐は思った。自分の傷口を探られた人間に対しての対応はこんなにも冷たい。
食欲のなかった屑桐は少なめによそってもらった朝食を出来るだけ早く食べ、不思議そうに見る後輩に適当な理由をつけて足早に食堂を去った。集合時間になるまで、なるべく心静かにおれる場所にいようと思い日光浴に出たのがこの裏庭だった。しかし裏庭には非常階段の出口の扉があって、結局完全に逃げはできないのだなと屑桐はため息をついた。逃げる気なんて毛頭もないけれど。───むしろ誰より事実を受け止めそれを解決する方向に勤しんでいるのはこの男なのだ。

 屑桐は夕べあの青白い明かりの浮かぶ廊下で魁に言った。
「少なくとも俺は知っている。」
薄明かりの中で、魁が一瞬見せた激しい感情は幻でも何でもなかった。今また戻した無表情の中に、明らかに取り消せない情動の気色が浮かび上がっている。それは火のついた木炭のように強烈な火が、その身が灰になるまでいつまでもくすぶり続ける静かな凄まじい怒りだった。魁が低く、唇に乗せるだけのような小さな声で屑桐殿、と呼んだ。
「由太郎のことはかたじけなく思う。しかしお主が何を推測しようと勝手だが干渉される所以はない。」
普段の口調からは想像できない断絶の思いが込められた言葉に魁の怒りは計り知れなかった。
由太郎の名前がでてから魁は明らかに心情穏やかとは言えなかった。魁にとってもはやその名前が脅威にも似るほど、それを出されればとても建前を作って適当にやり過ごせるようなものではなく、魁の奥深くで眠らせておいた逆鱗をこつこつと叩き沈殿させた心の一部を浮かびあがらせる。どれほどの複雑な思想がここには絡み合っているのか。
生身の感情で生まれたものは同じく生まれたものでしか消せない。それは感情の上にあるものではなく本能という脳の組織そのものなのだ。だから本能は理屈では消えやしない。その男はその葛藤で苦しんでいた。由太郎を愛しそして嫌っていた。自分が傷つくからという理由で嫌っていた。いや由太郎の中の魁を脅かす部分を嫌っていたのだ。劣等感。それは人間の本能の中でももっともエグイもっとも簡単に芽生えてしまえる本能だった。
──優秀な弟に脅かされるのは嫌だ──だけど誰かに知られたくない──
屑桐がいつそれらに気付いたのかはどこかで区切りのあるものではなかった。由太郎を知り、魁を見て、アンバランスで仲のいい兄弟が二人並んだときに、目にはいると同時に覆い被さってきたものだった。夢のように。
その昔に名声を上げた著名人が天才と言われた力を、二人の子供にわけへだてなく同時に与えてやることができないのは遺伝子の法則で決まっていることなのだ。兄も弟もそのたゆまぬ努力からすばらしい力を手に入れた。しかし弟には兄とは違う華があった。誰が見ても輝かしい未来が期待できるような。それはどうしても兄にはない輝きだった。誰にだってきっとずっと幼い頃に言われたことがある言葉。「おとうさんに似たのね。」それは不可抗力な言葉だった。空中に降ってきて自分にはどうすることもできない。
幼い心がその言葉の意味を知り傷を付けて恐怖に震え始めたのはいつのことだろう。身を守らなければならなかった。無遠慮な言葉がちくちくささり血を流して干涸らびてしまう前に身を守るすべを手にしなければならなかった。
彼は弟を誇ることにした。
親の面目と自分の名誉のため最大限の努力を欠かさなかった上で弟を自慢に思って見せた。いい兄の顔で由太郎を愛せば、まるで母親のように由太郎の才能を喜ぶことが出来た。張り合う必要のない慈しむだけの愛情、それはとても楽だった。由太郎と兄弟でいることに逃げた、そういうことなんだ。兄弟でいたくなかった。そのことに後ろめたく思うほど由太郎を可愛がった。
それから生まれたのは最悪の結果。育てるように愛した由太郎の目にはいつしか兄しか居なかった。
「確かに俺が干渉するべき場所じゃない…。」
そのことに気付いたとき、目の前の険しい嫌気を奮い立たせてる男は、血の涙を流し、苦しみ後悔しただろう。優しさや愛情がまるごと自分を守るためのものだった訳じゃない。それでも間違いなくあった、庇護欲。本能のようにかき立てられる目下に対する理由なき愛情。間違いなく由太郎を愛してはいたのだ。そうでなければ苦しむはずがない。

お前が悪いんじゃない。屑桐は低く、はっきりとした声でそう言った。
「羨望はいつだって理屈抜きだ。」
屑桐はそこで由太郎の眠る布団部屋の襖の中へ帰っていった。魁の顔が変わったのをちゃんと見た。

───夜を明かすため夜はもう終わろうとしている。


屑桐は目を開けた。明るい日射しがプラタナスの枝のなかを踊っていた。弾いた日射しが眩しすぎて目がちゃんと開けられなかった。波間のような目を焼く光と、耳元をさらう風と葉擦れの小さな音が、現実を足下から流し込み屑桐の視界と馳せた心のブレを元に戻した。輪郭が整いクリアになると、遠くで一時間ごとに時刻を知らせる寺の鐘が鳴り響いていた。時間だ。もう監督の集合がかかる。
屑桐はいつもと変わらない速さでまっすぐ歩いた。朝食を済ませたチームメイト達の足音もすぐ近くで混じって聞こえる。その一番最後に由太郎の明るい髪が混じっていることを思ったが、祈らなかった。自分はもう、あとはなにもすることがないのだと。














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