ギン少年は約束という名の箱を送った


そして約束を果たすことが鍵




ギンがいなくなって次の朝。周りは騒然として、異常な量の仕事が増えて右を向いても左を向いても誰もが忙しそうに走り回っていた。誰もが顔に緊張の色を走らせて、物音の一つにもピリピリ反応した。そのせいでみんな疲れはてた顔をしていた。
ただ私だけが腕に抱えた仕事の山を別にすれば、何も変わりなかった。お上が容赦なく立案しまくる思いつく限りの予測と対策の書面には閉口させられたけど(それに伴って私たちの仕事が増えてるんだからたまったもんじゃない)私の心も体も、昨日までの私のままだった。このおなじ服を着て同じ道の上にギンがいたときの私がもう館どころかきっと同じ空の下にさえギンはいない今の私と同じなのだ。私は戸惑った。まさかこんなに何もないなんて。曲がり角を曲がれば今でもギンが現れそうなんだとかそういう気持ちになるわけでもなくて、ギンが今いなくて、きっともう帰ってくることはなくて、さらに私はギンを殺さなくちゃなんないんだろうなあという全部をまるごと受け入れた上で私は何もないのだ。こんなのってちょっとないんじゃないかって思うけど、どうしたってそうなんだから仕方ない。
私は仕事が山積みの部屋を出て、遠回りしてお昼ご飯を食べにでかけた。めんどうくさいから、時間が潰れれば潰れるほどいい。お昼ご飯もできあがるのに時間がかかるものを頼んでそれからうんとよく噛んでやろうと思っていると、橋を渡った向こうに隊長がいた。重そうな書類の束を几帳面にズレなく積み上げて歩いている。
「半分持ちますよ、隊長。」
私が声をかけると、隊長は眉毛をつり上げて振り向いた。
「松本か、何してるんだ。」
「お昼ご飯たべにいこうと思って。隊長はもう召し上がったんですか?勤務時間内に一時間きっちり休憩時間としてとられてるんですからしっかり一時間休んでやらないと損ですよ。」
「一時間しっかり昼休みとることを怠慢とは言わねえが、時と場合を考えて行動してくれよ。」
おざなりに返事しながら隊長の手元の書類を半分持とうとすると睨まれてかわされた。
「これくらい持てる。」
私は失礼しましたと言ったけど笑ってしまったので、余計怒りを買ってしまった。きっちり積み上げたせいで白い重りにしか見えない書類は隊長の小さな手を真っ赤にさせていた。鍛えている人だから、本当に重くはないのかもしれないけど、それでも体にあった小さな手が皮膚をはらせて懸命に支えているとその肉を圧迫し血管を浮かび上がらせる。
「雛森副隊長の様子見に行ってたんでしょう?」
私は気を遣って隊長の3歩後ろを歩いた。後ろ姿の隊長はなんでもないように「ああ」と言った。
「快方に向かいそうですか。」
「わからねえ。」
わたしはそうですかと言って隊長の後を歩くのをやめた。持たなくっていいって言われたんだし、お昼ご飯を食べに行かないとせっかくの休憩がなくなってしまう。隊長は私が後ろをついて行くのをやめたことに気付いているのか気付いていないのか変わらない速度でさっさと歩いていった。きっちり積み上がった書類が左右に揺れている。二十歩ほど行ったところで隊長が振り向いて私の顔をじっと見た。私は手でも振っておこうかと思ったけどなんとなく面倒くさくて私も隊長の顔をぼんやりと見た。隊長が木の下を通り抜けるような小さな声で言った。
「お前はかわらねえな。」
まいったな。私は力が抜けてため息までついてしまった。隊長が言うのだから、慰めでもなんでもなく、本当にそう見えるから言ったのだとわかっていた。本当まいったなあ。
「ええ。おどろくくらい。」
私はもう一度隊長の手を見た。小さい手は相変わらず真っ赤で痛々しそうに血管を浮きだたせていた。無くしたくないものを必死に守り支える手だった。私にはない。

もっとぽっかり開いたらいいのに。欠落するとか、腕一本持っていってもいいからそれくらいのわかりやすい喪失感が欲しかった。これじゃ自分が今どんな感情をギンに抱いてるのかまったくわからないし、じゃあギンがそばにいた今までって私になんにも与えはしなかったの?少なくとも何十年連れ添った一口には言えないほど長い付き合いだったのに、誰よりも長く側にいたと公言できるのに、何も感じないなんて私ってば。でも私は確信している。きっと向こうも、と。
私たちには一つ約束があった。軽薄なあいつが一度だけ口にしたたわいない小さな約束。私はそれをずっと覚えていた。その約束をしたとき今のような気持ちで、私に何の感動も与えなかった。ただギンが口に乗せた言葉が約束という類に分類されるようなそれだったので、私たちの間で約束になっただけのこと。守らないだろうとは思わなかったし、きっと守ってくれると期待してもいなかった。私たちはそれ以降その約束を口にすることはなかったけど、私はずっと覚えていた。そのときの気温も、景色も、あいつの声も色濃く鮮明に。これだけしっかりと覚えているのは、やはりどこかで期待しているのだろうかと思って自分の感情を、リボンを指で滑らせるようにたどって起伏を探っても、なんにも引っかかりはしなかった。私はやっぱりな、と思うしかなかった。
私がその約束にも今ギンが去っていったことにも無感動なのは、無くなっても仕方のないことだと思っていたからだ。それは諦めではなく、瞬間に消えていく泡のように自然に無くなる私の心の部分だから。できた瞬間にぱちぱちと消えて後の何も残らない。そんな心の部分にいたのはいつでもギンだった。実際にギンはぱちぱちと一瞬で私の元から消えていった。彼自身が誰もの間に何も残さなかったわけではないけれど、私の心には潔くはじけ飛んで傷跡も残らない。私は息を吸って吐いた。ため息と間違うくらい大きく息が出た。逆に呼吸がしやすいくらいだった。風は容赦なく私に吹きつけるけど肌にはとても柔らかで気持ちいい。私は記憶の中のギンをたどり、風の中に少しでもギンが残っていないか探してみたけど上手くいかなかった。本当に彼は消えてしまったのだ。泡のように、私にだけ傷跡を残さずに。

───守ってくれないかなあ 約束

私は思わずしゃがみ込んでしまった。心からそう思う。強く思いすぎて精神が全部まいっちゃって歩けなくなるくらい。今それを叶えてくれるなら他に何もいらないくらい。自然とこめかみにぎゅっと力がこもる。

ギン 約束守ってくれないかなあ

私はもう少しで涙が溢れそうなほど感情を高ぶらせていたけど、それは本心からそれを願う気持ちでいっぱいになっていて、ギンがいなくなったから来たものではなかった。私に何も残さないなんてそんなことしないで。何か一つでいいから置いてって。私はギンがいなくてもなにも感じない。それが悲しい。どんな技で私のギンに向かう矢印をそっと向きを変えていったのかしら。まるで私を悲しませまいとするように。もしそうなら私はギンに特別大事にされたように感じるけど、ならギンは全部の感情を持って一人で私を見ていたの?まるで片思いのように。
喉がとても渇いて、私はおぼれかけの魚のように自然に開けた口から短い呼吸を荒く繰り返していた。立ち上がることは出来なくて震える足で必死に揺れ動く地面から振り下ろされないようにしがみついている。
わかっていたことなのに、ギンの心は私の心とは違う場所にあった。でも彼が知らずと私の心を読んで、上手く自分に寄せる私の様々な感情を操作していたのだと知って、それがこんなに歯がゆくてどうしようもない気持ちにさせられているのは、やっぱりわかっていなかったんだ。ギンと私がどれだけ違っていても、どこか心の一部は私の一部と同じ場所にあると、どこかで信じていたのだ。
私たちは兄弟で戦友で親友だった。だけど片方は片方に何も残していかなかった。私は今までギンの心の一部でも触れることは出来なかったんだろうか?私がギンに触れなかったように?
私は立ち上がることを諦めて側にあった桜の木にもたれて座った。上を向くと木の隙間からチラチラと輝く太陽が、一瞬大きく瞬いて私は反射的に目をつむった。目を開けると光は元に戻っていた。地表に目を戻した瞬間、約束はあった。桜の木にもたれた私の前に約束は果たされていた。
私は慌ててもう一度木を見上げたけどギンもギンの気配も何もなかった。私は益々立ち上がることが出来なくなって力の抜けた足を抱えた。その約束を目の前に、私に何も残していかなかったギンが、約束を残していったのは、私がギンの心に触れたのだと私の心を読むようにしてこうして果たしに来てくれるためだったのだと知った。別れてようやく知る手に入った彼の心の私と同じ場所にあった一部

私も君を特別に思う
たぶん離れていても













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