ある日、猫が




ハルナが猫に化けていた。







昨夜確かに腕の中におさめて眠った。今朝起きてみると一回りも二回りも小さくなって、さらさらの髪はふわふわの獣毛に変わっていた。色だけはそのまま。これはきっと「シャム猫」という種類だろう。少し腕を動かすと猫は気怠げに顔をあげ、一瞬だけ目が合ってまた閉じた。カーテンを開けていない薄暗い部屋では、まだ瞳孔が開いていて面影がないこともない。黒目がちで、少し不健康なハルナの眼に。まさかと思って名前を呼んでみる。
「…ハルナ?」
猫は片目だけを緩慢に開き、それから細く「ナーン」と鳴いた。




顔を洗って服を着替えて昨日脱ぎ散らかしたままの服を集め畳む。とりあえず現実でやるべきことをやってみた。猫はその物音に完全に眼を覚まし、訴えるように鳴いた。餌をあたえている間、人間のハルナを探したがやはり何処にもいなかった。諦めて朝食に出かけようとすると猫はぴったりと自分の後ろをついてきた。催促するかのように何度か鳴く。猫の声が珍しい此処では、鳴き声が廊下中響き渡って注目を集めた。もちろん、食堂でも。
「おはよう黄雅。どうしたんだその猫。」
「やはり猫に見えるか?」
以前読んだ洋書の童話では愚か者には見えない服と言うのが存在していた。沙羅がはぁ?と怪訝そうな顔つきでこちらを見る。いや、と細くため息をつくと、遅れて「おはよう」と返した。
「ハルナに似てんなあ〜毛の色とか。どことなく目とか顔つきも似てるかも…。」
元々小動物が好きだという沙羅は自分の朝食もそっちのけに猫とじゃれていた。沙羅のその台詞に心の中で頷く。やはりそう思うのは自分だけではなかった。熱めの茶を注ぎながらぐるりと食堂内を一周見やる。だが朝は絶対食べないと力がでないと豪語していたハルナの姿はやはり見当たらなかった。代わりに、ハルナがいつも居る場所――右隣の席では、沙羅のプレートの上のフライを狙うシャム猫がちょんと座っている。頭痛がしてきたような気がする。熱いお茶をぐっと流し込み、席を立つと、軽い足音を立てて猫もその後をついてきた。
「あ、黄…。」
何かを言いかけた沙羅を振り向きもしないまま、小さく手を振り皿を片づけに歩いた。
「なんだあアイツ…ハルナがいないのが寂しいのかな。」




「…どいてくれないか。」
この頭痛から逃れようと、普段はやらない雑務に手をつけていた。とにかく仕事に没頭すれば時間も早くすぎるだろうと思っていたが、頭痛はよけい酷くなった。仕事をするときの空いた背中を狙ってのしかかり、構えと何度も鳴く。まさしくハルナそのものの猫の行動が仕事に集中することを許さないでいた。
「おお?ハルナずいぶんと小さくなったなあ。」
名前に反応して弾かれたように顔を上げると、カラカラと豪快に笑う万尊がいた。
「…今朝起きたら、こうなっていた。」
その笑い声さえ頭痛に響く。諦めたように緩慢にそう言うと、万尊は一瞬きょとんとしてさらに音量を上げてがははと笑い出した。
「そーりゃいい。王子様のキスで元にもどるかもってなあ。」
案外黄雅も…と笑い続ける万尊に、遠くから呼び声がかかり話はそこで途切れた。頭痛に机に突っ伏すと、背中に乗っていた猫が顔を覗き込んできた。頬をすりよせ、ちいさくにゃん、と鳴く。ハルナのとる行動によく似ている。
「…。」
柔らかな顎毛を撫でると、ゴロゴロと気持ちよさそうにジャレてきた。本当にハルナなんだろうか。生物学的にもありえない。が、世の中は科学だけでは割り切れないこともある。皮肉にも自分達の存在はそれを裏付けるものだ。ザラザラの小さなしたがぺろりと、鼻の頭の舐めてきた。万尊の言った言葉が頭をよぎる。まさか、そんな馬鹿な話。だけど、ハルナが一生このままだったら?長目の柔らかな髪も、くるくると変わる表情も、長い手も足も───
信じるわけではなかったが、例えていうなら、藁にもすがるような思いだった。猫の頬を撫でると、猫は気持ちよさそうに目を閉じる。ゆっくりと近付く顔が、ハルナに見えないことも無いと、自分を騙し小さな口を狙って自分のそれを落とし……──
「なにしてんの黄雅。」





+ + + +





腹を抱えて大笑いするハルナの姿が、よけい頭痛を酷くさせた。長い手で腹を押さえ、長い足でじたばたと床を叩き、柔らかな長い髪を振り乱し、大きな目からは涙がうっすらとにじみ出てきていた。間違いなく見慣れた人間のハルナ。
「で、その猫にかかった魔法をキスで解いてくれようとしたわけ?」
黄雅ってメルヘン、と笑い続けるハルナをじろりと睨んだ。ハルナはそれに気付き、涙を拭っていつものように背中にのしかかり細い腕を首に巻き付けた。慣れた体重が安心する。
「僕今朝は仕事で早くに出かけるって言ったじゃん。」
「言ったか?」
「言ったよお。」
これからはお酒飲んでる時に予定の話しないでおこうか、と頬にひとつキスをする。ああそういえば夕べは万尊の差し入れの日本酒を二人で開けた。軽い飲み心地に対しなかなかアルコール度数が高くて、夕べ話した会話が記憶に残っていない。頭痛の原因は二日酔いだったのか。額を軽く押さえると机に登っていた猫が軽く鳴き、ハルナがキスをした反対の頬を舐めた。
「にしてもどこの子だろうね?黄雅によく懐いてる。」
ハルナが猫を持ち上げると、やはり猫はハルナに似ていると思った。白い毛並みに鼻の頭から黒く染まり、大きく鋭い目は翠色。猫はハルナを見ると、嬉しそうにナーンと鳴いた。
「でも、駄目。黄雅はあげないよ。」
そのかわり君にはこっちをあげるとハルナは窓を開け、何かを呼ぶようにチッチッチと舌打ちした。すると窓の隙間から、ニャンという声が漏れ、ハルナが身を乗り出しそれを抱いた。灰色の、目の細い猫だった。シャム猫がそっちに気がつくと、嬉しそうに派手に何度も鳴いた。
「ハイハイ。ご対ー面ー。」
「どうしたんだそいつは。」
「なんかね、ここを出てすぐに付いてきたんだよ。猫は珍しいしなんか離れないからそのままにしてたんだけど。それに、ほら。ちょっと黄雅と似てる。」
シャム猫が灰色の目の細い猫にじゃれつき、猫は大人しくされるがままになっていた。灰の猫は目が細いと言うよりも、ほとんど目を閉じていた。はしゃぐシャム猫の体を一舐めすると、シャム猫はぴったりと灰の猫にくっついて離れようとしなかった。
「僕はまさか黄雅が化けたとは思わなかったけどね。」
その様子をぼんやり見ていると隣からくっくっくと笑いを漏らすハルナの声が聞こえた。細くため息を吐き、少しだけ頬が紅潮する。
「…今朝の本来ハルナの居るべき場所に猫がいたら、誰だって動揺する。」
ハルナは笑いを漏らすのをやめ、今度は唇にキスをした。
「心配した?」
「焦った。」
離れていくハルナの細い手首を掴み、頬に触れ、その唇に唇でもって触れた。柔らかな髪がさらさらと指の間をすり抜けた。滑らかな肌と髪が慣れたそれであると確認すると酷く落ち着き、頭痛が止んだ。ハルナが自分の肩口に顔を埋め、さらさらの髪を撫でている間ぼんやりと猫を眺めていた。猫はこちらに負けじと体の舐めあいをしていた。今朝までの思考を反芻すると、まったくどうかしている。ハルナが居ないだけで、そんな考えに辿り着くなんて。この髪にも頬にも触れられないというだけで、そんなに動揺するなんて。本当に、どうかしている。灰色の猫と目が合い、猫は小さくこちらにニャン、と鳴いた。頷くように、ハルナに回した腕に、ほんの少し力を入れた。しばらく酒は控えようと決意した。










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