棚の上で蔑ろにしていた錠剤の山を、乱暴に掴んで引き出しの中へ突っ込んだ。
入りきらなかった薬が棚の上に残り、閉めた振動でボタボタと落ちたけれども手に取れば誘惑に負けてしまいそうで汗の浮かんだ額をシーツに擦りつけ声を殺した。
きっとこんなものではない。彼等の痛みに比べれば。痛みに疼く傷口も、熱にうなされ浮かぶ悪夢も、きっと。
「ハァ、ハァ、ハッ…。」
動機も呼吸音も、煩い。



「調子はどうだ?」
「うん、もう平気さ。」
嘘は得意だった。
自慢だけど人の目をしっかり見て嘘をつくことや、天と地がひっくり返ったってありえないような嘘を信じ込ませる自信だってある。もちろん、大好きな人にだって躊躇わない。
「薬がね、よく効いてるんだ。そのかわり少し眠くなるんだけど。」
簡単に整えた髪と衣服。それと、笑顔。この笑顔さえできれば、誰にだってばれることなく八割方上手くいく。
右足に響く鋭い痛みは常時襲い、気を抜けば冷や汗が伝い下りてきそうで笑顔の裏で細心の注意を払う。なるべく長居をさせないように、「眠い」と会話に伏線を張っておけば、気を使う彼はきっと迷惑がかからないようにとすぐに退室してくれるだろうと踏んでいた。
一つ笑みをこぼすたびまた一つ嘘を重ねていく。「平気だよ」というように微笑んだままゆっくり右足を撫でる。布に引っ張られる皮膚が傷口を弛緩して痛みが増す。それでも微笑めば、この笑顔すら嘘になった。
「ごめん、さっきの薬が効いてきたかも。ちょっと寝…」
「ハルナ。」
何?と聞き返す前に、大きな手が僕の額を拭った。部屋を追い出すタイミングが遅かった。細心の注意を払っていたのに、と心で毒づく。彼の大きな手には、僕の汗が光っていた。
瞬時に色々な嘘を思い浮かべてみたが、暖房の設定温度の所為だとこじつけても聡明な君は騙されないだろうと諦めた。
「薬は。」
「その棚の中。大事にしまってるよ。」
「飲んでいないんだな?」
「だから、大事にしまってるって。」
「薬嫌いのお前が、粉末なんて飲みにくい薬に文句一つ言わないのは変だと思っていた。」
「何ソレ。」
くすくすと笑ってみせたが、黄雅が眉間の皺をあんまりにも深く刻んでいたのでやめた。荒々しく開かれた棚が大げさに軋んだ。ひと掴み、それでも大量の薬を掴んでそれらを僕の頭上から投げた。錠剤、糖衣、粉末…それぞれの色がチカチカと降り注ぐ。
「解熱、鎮痛、促成剤。どれも必要で、無ければ辛いはずだ。何故…。」
「嫌だ。飲まない。」
「ハルナ。」
「嫌だったらっ。」
シーツを翻すとその上の薬は全て落ちた。憎々しくそれらの睨み、包帯の上から右膝を強く握る。傷口はあの日から熱を持って正常な感覚はない。
「沙羅はどこ?万尊は?鈍は?今何をしているの?」
「三人とも無事だ、落ち着け。」
「無事?無事ってなに?」
プライドと命をひきかえに刺青を失い職を解かれのうのうと戻ってきた敗者だと侮辱を受けながら雑用だけで生き殺されることが無事だと?
知っているから、ここに居る全ての人間がくだらないナチズムに踊らされた優越と反吐のでるような愚楽の固まりのような奴らだと。ここに居る自分ですらそれを否定できずに、でもただその中でもマシな奴らを見つけてマシな考え方をしてマシな位に就いて、ああ自分たちは大分マシだと思えたのは、それらがなによりも大事で愛しいものだと気付いたからだ。
バラバラでもいくつかの共通点で繋いで来れた。自分達は、きっと似ていたんだ。
だからわかってしまう。彼等がそれぞれどの行動をとるか、どの選択肢を見つけてしまうか。
「駄目だ、まだ…。」
「ハルナ?」
見つけても、選ばせてなんてやらない。
「離してやるものか。」

僕が薬を飲まなかったのは、痛みを忘れることは彼等への侮辱だと思ったからだ。もうこれ以上痛みを忘れることで無意識に「嘘」をついて痛みを忘れれば、彼等についた傷をも無かったことにしてしまうようで怖かった。ぎりり、と指に力を込めると包帯に爪が食い込み赤黒く変色していった。黄雅の怒鳴る声が随分遠くに聞こえた。浸食して痛みが広がり膿んで永遠に痕が残れば、きっと同じだけ傍に居てくれるのではないかと。糖分の足りていない頭は浅はかで、焦燥はより強く感じた。

僕は引き出しをひっくり返した。一番奥にしまった契約書。この薄っぺらな鎖を何よりも嫌ったくせに、皮肉にも今はこれだけが生命線。
「黄、雅」
浅はかでも姑息でもいいから―――
「沙羅達にこれを。それから、伝言―…。」





一番覚醒が遅かったのは、自分だった。本当に遅かった。
耳障りで不粋な会話が耳に届いて、それが脳で理解できるようになったのは二日前。刺青の消えた体を罵る治療班のその会話が吐き気がするほど気持ち悪くて、眼を閉じて二日、「死んだフリ」をしていた。その会話を、どこか遠くで聞けるようになってから、ゆっくりゆっくりと目を開けた。別に狸寝入りをしていたわけじゃない。「死んだフリ」はフリじゃなかったんだ。動機も脳波も機能したまま死んでしまえるということもあるものだ。


「精神的ダメージが。」
「しばらく安静にさせておきましょう。」
沈黙は、嘘をついたことにならない。
ただ口を開くのも億劫で、指先を曲げることも、瞬くことすら重くて俺は自分の体調と精神に非常に”素直”に従っただけ。
点滴を代えに、数時間に一回忠実な治療班が出入りする。冷えて固まっただけで一つも口を付けていない食事を下げにくる。そして―――何だっけ。思い出せない。ただ何をする目的も無い男が度々、この部屋を訪れてきたような気がする。何かを喋っていたような気がする。何か、とても、大事な…―――
そこまで思い出そうとすると、決まって凄まじい嘔吐が襲った。
数時間ぶりに目を開けると、モノクロームの世界に葉の擦れる音と日の光だけが正しい情報をもって映った。腕はまだ上がらない。かろうじて自由に動かせる首だけをひねり、その日の光の眩しさを感じていた。
自分が殴られた場所は、心臓の真上だったそうだ。一時的に心停止を起こし、此処に運ばれた時は決して安全な状態ではなかったと。大量の薬の投与と衝撃の後遺症で、体はしばらく動かせないだろうと医療班は言っていた。だから、これは本当なのだとだらしなく放り出した貧相な腕を目だけで見下ろした。首から上は、随分自由に動くようになった。ためしに喉の奥をぎゅっとしぼってみる。
――ぁー…、」
掠れた声は忘れた自分の声だった。ああ、声も出るようになったのだ。起きている間瞬きも面倒だと思わなくなった。もう少しできっと元通り動かせるんだろう。
「体調はどうだ。」
体がギシリ、と軋んだ。

「…黄、雅。」
長身、だけども長い髪。嘔吐はなかった。彼ではなかった。名前もでてこないのに、彼ではなかったことに落胆している自分がいた。目の前の、薄い藍の髪の男の名はすぐにでてくるのに。
「久しぶり。」
「何度か見舞いに来てはいたんだがな。」
「悪ぃ。」
不思議と応答できる口が、不思議につり上がった。ああ、笑うことは体が覚えてるもんなんだなあ。
「黄雅は目立って怪我してないんだ?」
「ああ、残念だろう?」
「良かったよ。」
皮肉なのか、本心なのか。ただ何故か自分の顔からは笑顔が消えていて、それを見た黄雅からもすっと空気が変わる気配がした。なんて”嘘”のつけない男なのだ。黄雅、それと、自分も。
「俺こんなんだから。いくらハルナが強いからって一人じゃ限度もあるだろうし、何より大好きな黄雅と二人っきりなら、文句ねえだろ?むしろ今頃喜んで俺らの墓建ててるんじゃねえ?」
くっくっと笑ってみせたが、黄雅とは目を合わせられなかった。
「まさか、逆だ。」
「心配でもしてるっていうのか。」
「沙羅。」
「心配するなって言っておけよ。絶対、ハルナの邪魔はしねえから。」
ごろりと黄雅に背を向けると、窓辺の日差しが目に強く刺さった。本心だった。ハルナとはよく喧嘩した。二日以内には元に戻っていた。お互いどの言葉で相手がすぐ怒るか、どんな態度で接せばすぐに受け入れてくれるか十分に知っていた。知り過ぎたのだ。独占欲が強くて、寂しがりで、接近戦じゃないと無理なのは戦闘においてだけじゃない。ハルナは絶対に離れることを許さない。

「伝言だ。」

薄い紙切れがヒラリと舞った。見覚えのある、自分の字と自分の血判。仕事が決まった時に形式的に渡された、契約書だった。
「"契約はまだ半年以上残っている"」
契約は一年更新。
「"まだ僕の元を離れることは許さない。"」
俺はハルナを、知り過ぎた。
「お前にならわかるな。」
これは、ハルナの優しい嘘。目の前から消えることも、辞職することも、断つことも、権利を奪っておいて本当は、何より自ら命を絶つことを恐れて引いた命綱。
よく喧嘩した。二日以内には元に戻っていた。面倒くさがりで興味の無いものには本当におざなりのくせに、好きなものにはとことんしつこくて、手中に無いと気が済まないと豪語していた。

「No,sir.」
二つに裂けた紙の間から見た黄雅の顔が、あんまりにも珍しくて忘れられなかった。



一瞬でも、そう願ったことだけは真実なのに。
嘘を

彼の優しい嘘を受け入れるだけのキャパシティの広い嘘で、
自分さえ騙せたなら。


虚:本来あるべきものが不足している状態
実:余分なものがある状態

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